福田総理の突然の辞任を受けて行なわれた自民党の総裁選挙の中で、医療のあり方についても論戦が闘わされました。医療崩壊というべき危機的状況をどうとらえ、どう解決していこうとしているのか、そして、どんな医療のグランドデザインを描いているのか、私も「報道2001」の番組の中で各候補に問い質しました。
私としてはできるだけ具体的なイメージが浮かぶような医療のあり方論をしたかったのですが、残念ながら、どうしても負担と給付の話が中心となってしまいました。もちろん中負担中福祉なのか、財源は消費税を視野に入れるのかどうかという問題は重大な課題ではあります。しかし、後期高齢者医療制度の問題をきっかけに浮かび上がった国民の医療への不安に対して、それぞれの候補がどのような将来像を描いているのかを聞こうと質問を投げかけましたが、私を満足させてくれるような答えは誰からも出てきませんでした。
中でも驚いたのは石原伸晃氏の発言でした。他候補よりも比較的に具体的なイメージを示してくれたのはいいのですが、その中味を聞いて仰天しました。看護師不足の現状を改善するために、「准看護師を増やさなければならない」と彼は言い切ったのです。若手改革派のイメージのあった石原氏の発言だけに、私は自分の耳を疑いました。どこで誰に吹き込まれたかは分かりませんが、少なくとも彼はそう確信していたようです。
准看護師問題は私にとって、ナースの世界に目を向けた入り口でした。看護界が一貫して廃止を訴え続けてきたにも関わらず、半世紀経っても一向に変化しようとしないのはいったい何故なのか。それを追求するところから、看護の世界を徹底的に取材するようになりました。
日本看護協会に対して「准看制度廃止」という主張から「准看養成停止」に変えるべきだと提言したのも私です。その方がはるかに実現可能性が高いと思ったからです。そのためにイギリスまで取材に行き、イギリスの看護教育改革の歴史をテレビでリポートしました。そして、当時、厚生省看護課長だった今の久常会長とうまく“連携”しながら、イギリスに倣って看護教育改革というアプローチによって准看問題を解決しようとがんばりました。
しかし、平成8年にせっかく「看護養成一本化」の厚生省の検討会報告までたどり着いたものの、その後の日本医師会の横暴により白紙撤回されたという苦い経験も共有しました。私がメディアの立場でありながら看護界と“連携”できたのは、准看問題の解決が患者のための看護の質の向上につながると思ったからでした。
あれから12年の歳月が流れましたが、未だに准看問題は置き去りにされたままとなっています。石原氏はおそらく准看問題のこういった歴史をご存知ないのではないでしょう。そうでなければ「准看護師を増やすべき」などという時計の針を逆に回すような主張をするなんて信じられません。
これに対して日本看護協会は何か、対応したのでしょうか。私は石原氏を次代のリーダーとして期待していますので、この問題については彼の認識不足だと思っています。ですから、協会が彼を糾弾すべきだとまでは考えていませんが、少なくともきちんと説明をしておくべきです。そうでなければこういう発言はそのまま残っていってしまいます。看護界がそれでいいはずはないと思うのです。
確かに医療現場からナースの不足が声高に叫ばれる状況の中で、簡単に養成ができる准看護師を増やして急場を凌げばいいではないかという議論が起きてくるのも無理はありません。その理屈こそ、戦後の准看護師制度が始まった時に使われたものでした。最初は甲種看護婦に対して乙種看護婦という名称ではありましたが、要するに“急場凌ぎの理屈”でした。資格は違っても同じ業務が認められたという患者にとってはおよそ理解不能の制度となったのも、急場を凌ぐためにはやむをえないだろうという議論にねじ伏せられたからです。
しかし、いったん制度ができてしまうと、同じ業務ができるなら給料は安い方がいいという診療所経営の視点から、重宝されることになりました。看護職の中に二つの資格制度があるということから差別的な構造が生まれ、どれだけ多くの准看護師のみなさんが不快な思いを我慢させられてきたことでしょう。それだけでなく、肝心の看護の質の問題が長い間にわたって置き去りにされたのも、准看制度の負の遺産と言わざるをえません。
准看制度以外の分野では看護の世界は大きく変わりました。看護界の努力の積み重ねによって、今では看護大学も100校を超え、大学院教育も広がり、教育水準は大幅に向上しましたし、専門性を高めた認定看護師も増えました。かつてのネガティブな3K職場イメージも払拭され、看護師は今や学生がなりたい仕事の上位を常に占める花形職場となりました。
これからさらに高齢化社会が進んでいくにつれて、看護界はさらに専門性を高めた頼れるプロフェッショナルとしての存在感が期待されています。対応しきれない医療ニーズがどんどん高まり、看護師がその隙間を埋めていくことも求められてくるでしょう。アメリカのナースプラクティショナーのように、医師に代わって診療行為の一部まで担えるような高度な看護師も検討課題として上ってくるでしょう。すべてはさらなる看護師のレベル向上を目指した前向きの議論です。
ところが、そんな中で突然に出てきた「准看護師を増やせ」という議論は時計を60年も前に戻すものです。時代錯誤もはなはだしい妄言としか私には思えません。私などが驚くよりも、看護界が真っ先に反応すべきではないでしょうか?しかし、それが自民党の総裁選という政治のメインステージで、最も多くの国民が見ているテレビ番組の場で飛び出したということは重大に考えるべき由々しき事態ではないでしょうか。
もし、政党や政治家に遠慮して黙っているのだとしたら、そもそも政治へのアプローチそのものが間違っていると言わざるをえません。本来は看護界の掲げる政策を実現させるためにはどうすればいいかを十分に考えた上で、政治への対応を決めるべきです。政党への支持表明が先にありきでは本末転倒です。そして、時代の動きにもっと敏感でなければなりません。大事なポイントをはずしてしまったら、いつの間にか規制事実がどんどん築かれていってしまうことにもなりかねません。
看護界がどの政党を支持すべきかなどということは私の立場では言えるはずもありませんし、言おうという気もありません。ただ、一般論として言えば、自分たちの主張と全く反対のことを堂々と発言している人を組織上げて応援しているとしたら、それは珍妙なことです。もし、その人を支持したいなら、その候補者の主張を変えるようにまずは迫るべきではないでしょうか?それが政治というものです。
日本看護協会の役員の中に、新しい看護界の顔として押し出そうとされている人がいます。私もお会いしたことがありますが、とても美人で華がある魅力的な女性です。おそらく近いうちに看護界の代表として政治の世界に出てくることになるのではないでしょうか。そういうニューフェイスが出てくることは素晴らしいことだと思います。
しかし、それで政治力を発揮できると考えるのは甘いのではないでしょうか。今いる政治家、そして立候補予定者の一人一人の言動を的確に把握しながら、それに対して、きめ細かく対処していくことこそ重要です。特に小選挙区制度の下では有効な手法です。自分の選挙区の看護界から明確にノーを突きつけられて戦える候補者はそうはいないはずです。
「看護師不足だから准看護師を増やせ」という議論を放っておくと、「看護師は給料も高く払わなければならないから、いっそのこと、みんな准看護師でいいじゃないか」という話につながるかもしれません。看護の質の話は再び、闇のかなたへ飛び去っていくでしょう。あれよあれよと言う間に、時代は逆戻りして、再び看護師受難の時代が訪れないとも限りません。
医療崩壊が叫ばれる今が実は正念場です。政治の世界でもあるべき看護の世界についての共通認識ができていないと、取り返しのつかない事態になってしまうかもしれません。ピンチはチャンスという言葉を看護界としてどう具体化させるか、実は一刻の猶予もならない事態に陥っているのです。