今から10年ほど前、アメリカの病院で麻酔専門看護師を取材したことがありました。手術室で見事な手さばきで気管挿管を行い、全身麻酔をかけていたナースプラクティショナーは日本でのナースのイメージをぶち破る輝く存在でした。麻酔医は急変に備えて、自分のオフィスで待機しているだけで、すべてはナースに任されていました。
ドクターの専門領域でも他人に譲れる部分はどんどん譲っていこうとするアメリカの医療の先進性に、感銘を受けたことをよく覚えています。アメリカは医療費が高すぎるから、ドクターよりも安く使えるナースが優遇されているだけという冷めた声もありました。しかし、なんでもかんでもドクターでなければ判断できない、処置できないという日本の医療は、医師を頂点とした権威主義的医療であって、旧態依然たるもののように思えました。
ドクターもコメディカルスタッフもさまざまな分野の専門家が、それぞれの専門性を活かしながら一緒になって患者に向き合っていくような医療の方がいいと私は思いました。そして、日本にもそういう時代が早く来て欲しいという思いを込めながら、この麻酔専門看護師を番組で紹介しました。しかし、10年経っても、未だにそんな気運さえでてきていないのは、どうしたことでしょうか?
日本の医療の在り方に大きな変化がない中で、医療は崩壊の危機に瀕しています。特に麻酔医の不足が声高に叫ばれ、手術ができない、救急患者を受け入れられないといった病院が増えています。麻酔医の数そのものは増えてはいても、高齢社会が進む中でのニーズの増加についていけないのだそうです。かつては外科医が麻酔をかけることも普通にありましたが、高齢者は合併症も多く、麻酔の専門医に任せなければ手術の安全が確保されないということで、麻酔医の仕事が急増しているのです。
日本麻酔科学会のアンケートによりますと、大学病院で必要とされる麻酔医の平均が15.7人なのに対して、実際は10.1人しかおらず、5.6人も不足しています。一般病院においても3.9人必要なのに2.6人しかおらず、1.3人不足しています。
こういった現実を補うために今では歯科医が麻酔を代行しているケースが多く見受けられます。もちろん、歯科医が医科麻酔を日常の業務として行なうことは医師法違反になりますから、許されていません。あくまで指導医の監督の下で、研修というカタチでのみ行なうことが可能です。しかし、指導医の監督という概念も明確ではありません。一対一でつきっきりで面倒をみるのなら、問題はないでしょうが、今の手術室にはそれだけの余裕はありません。実態は麻酔医不足を補うためにスタッフの一員として働いているようです。
その背景には歯科医が余っているという現状もあります。厚生労働省のデータによれば、人口10万人あたり必要とされる歯科医は50人であるのに対し、2004年では74.6人と20.4人も過剰になっています。都市部では患者争奪の激しい生き残り合戦が行なわれ、経営難に陥る歯科医も少なくありません。歯科医の中でも歯科麻酔医として認定されている人は、歯科医療における全身麻酔をすることができるのですから、こういった歯科医を医科麻酔の現場でうまく活用することは、一石二鳥の解決策になるはずです。
しかし、それが研修目的でしか認められていないというのは高い壁になっています。2006年10月、東京の三井記念病院で歯科医が麻酔研修中に起こしたトラブルで患者が死亡するという事故がありました。事故はたまたま指導医が別の手術の抜管に立ち会うために、いったんその手術室を離れていた間に起きました。これをきっかけに、研修におけるガイドラインが改定され、患者に対しては自らが歯科医であることを説明して、「文書で同意を得る」ことが必要となりました。
これまであいまいなカタチで行なわれていた研修を、より明確化することは決して悪いことではありません。しかし、それが問題の本質的な改善につながるのでしょうか?研修という名目で業務を行なうという不自然なカタチはそのままになっているのです。それよりも、歯科医の麻酔を本来業務として正式に認めるようにするべきではないでしょうか?
そのためにはどうすればいいか。一つの考え方は「歯科麻酔医の医科麻酔業務を認める」ことを学会などで正式に認めることです。そこに麻酔科医のなんらかの監督を義務付けるなどの条件をつけてもいいでしょう。日本麻酔科学会が認定するというハードルを設けておけば、質の低下にはつながらないはずです。これは医師側が決断すればすぐにでもできることです。要するに、現状を追認し、システム化するというだけの話です。
もう一つのアイデアは「歯科医が医師になれる道を開く」ということです。歯科医は医師ではないが、耳鼻科医、眼科医は医師であるというのも、よく考えれば不思議な気もします。虫歯の治療だけならいわゆる町の歯医者さんでもいいでしょうが、口腔外科などは脳に近い場所を扱う仕事であって、医師の領域に近いと言えます。
ただ、これまでの歴史的経緯もありますから、いきなり医師と歯科医の資格を融合することは無理でしょう。それならば、歯科医がある程度の追加の専門教育を履修した上で医師国家試験を受験できるようにすることは可能なのではないでしょうか?もちろん国家試験に合格した者にだけ医師国家資格が与えられますから、医師全体のレベル低下などは心配する必要はありません。
そういったあらゆる知恵を出して、硬直した日本の医療界を変革させていくべき時代に来ているのではないでしょうか。そこで、第3のアイデアとして、私は「麻酔専門師」という新たな資格を作ることを提案したいと思います。この資格は歯科医師、看護師、救急救命士などが新たな専門教育を受けた上で取れるようにするといいでしょう。日本看護協会が認定している専門看護師、認定看護師ではなく、はっきりとした国家資格にするべきです。
ここで、いきなり救急救命士を取り上げたのには意味があります。救急救命士は医療関連の国家資格でありながら、もともと制度成立の過程で、病院外で働く職業という制約を設けられたために、院内でその資格を活かして働くことはできないのです。救急搬送業務を消防が独占している限り、消防に勤めない限り資格を活かせません。民間救急車に乗っている人もいますが、あれは救急車とは言いながら実は患者搬送タクシーですから、本来の救急救命士の特技を活かせる業務ではありません。
全国に1万人以上の救急救命士が国家資格を活かせず、全く別の仕事をしているというまさにもったいない現状があるのです。今の救急救命士の中には気管挿管を行うことが認められた人も増えてきています。制度成立当初はできませんでしたが、今は特別の臨床実習を終えた人には許されるようになっています。医師でもまともな気管挿管ができない人がたくさんいる中で、彼らは貴重な人材です。それを麻酔医不足を補うために活用しない手はありません。
看護師不足という状況の中で、ナースに麻酔専門師への道を開くのは反対論も多く出るでしょう。ただ、麻酔専門師になったナースはナースを辞めるわけではなく、ナースとして働きながら必要に応じて麻酔をかけることもできるのですから、総合的に見て人材の有効活用につながるはずです。医師不足だからと言って、医学部の定員を増やすことを決めても、実際に数が増えるのは10年近くかかるのです。医療崩壊の危機を乗り越えるためには、医療関連資格のあり方そのものを総合的に見直すべきだと私は思います。
自民党総裁選の中で、候補者の石原伸晃氏が「ナース不足を解消するために准看護師をもっと増やすべき」と発言したのには驚きました。その一方で「看護の質を上げることが大事」と言うのです。次代を担うニューリーダーとして頭角を現してきた若手の有望株の発言とは思えませんでした。私は逆に、ナースのレベルをもっともっと上げていき、医師の分野にまで業務範囲を拡充していくことの方が根本的なナース不足の解決策につながると思います。それだけやりがいのある仕事になれば、希望する人ももっと増えてくるでしょうし、せっかく資格を取得した人が安易に辞めてしまうことも減ってくるはずです。
議論はいきなり後ろ向きになってしまうことはよくあります。危機に対しては後ずさりするのではなく、帆を張って前に向かって進んでいくことが大事です。私は医療崩壊の危機を逆にナースのレベルアップのチャンスにするべきだと思います。 「麻酔専門師」をそのきっかけにしてはいかがでしょうか?