3月11日朝5時半、我が家の寝室の電話が突然、鳴り響きました。一瞬、目覚まし時計かと思いましたが、まぎれもなくその音は電話です。嫌な予感。眼を閉じて覚悟を決めて受話器を取りました。案の定、義理の妹の緊迫した声です。「お兄さん、今、救急隊が来てますが、心臓止まってます。今、心臓マッサージやってるところで、これから病院に運びます」
「わかった、すぐに行く。でも、どっち?」「えっ?」「だからどっちなの?母親?それとも父親?」「お父さんですよ」
いつかは来るとは思っていた瞬間ではありましたが、ついに来たというわけです。父親は長期療養中でしたから、当然、父親に起きた急変であるのは当然でした。しかし、私が思わず「どっち?」と口にしたほど、最近の父親は元気を取り戻していました。それだけに私にとっては覚悟はできてはいたものの唐突なニュースだったのです。
2週間前の2月26日、岐阜の大垣の弟宅で父親の84歳の誕生祝のパーティーを開いたばかりでした。2年半前に末期の肝臓ガンで医師から見離され、2ヶ月持つかどうかという状態で年を越せないだろうと言われました。そこから奇跡の生還を成し遂げた父親でしたから、喜びもひとしおでした。「本当は3回忌だったはずなんだけどネ」そんな冗談を笑って言い合いながら、楽しいヒトトキを過ごしました。
父の肝臓ガンは一時、12センチ、腫瘍マーカー5800(正常値40以下)まで進んでいました。それを中西医結合医療(漢方と西洋医学を結合させた医療)により、3センチ、腫瘍マーカー20にまで下げることができました。3センチと言っても、実質的にはガン細胞は消滅したと考えていいと言われました。使った薬は漢方の抗がん剤と冬虫夏草などを煎じた漢方薬でした。西洋医学の薬は高熱が出るなど、一時的に容態が悪くなった急性期に限られました。
その後、父は劇的に回復し、通常の生活に戻ることができました。食欲は旺盛で晩酌も欠かすことはなく、肝臓ガンの消滅を実証してくれているようでした。しかし、高齢者にはいろんなことがあるものです。昨年夏、転倒による圧迫骨折で歩行が困難になり、ベッドと車椅子の生活になってしまいました。せっかく末期ガンを克服したのに、もったいない話です。
自分で動けなくなると父はだんだんと弱っていきました。リハビリも大動脈瘤があるからと積極的には行なえませんでした。体力が低下するとまた、肝臓ガンが再び息を吹き返しました。新しく胃ガンも発見されました。腫瘍マーカー1万7000という絶望的数字を記録しました。私たちは再び覚悟を決めざるをえませんでした。
医師からは西洋医学の治療を進められましたが、父は漢方でいくと言って聞きませんでした。ガンが末期状態になった時に、頼りにしていた医師から見離されたことがよほどショックだったようです。西洋医学一辺倒の病院への不信感には根深いものがありました。とはいえ、二度あることが三度あるとは限りません。私たち家族にとってもある種のカケでした。
しかし、父は再び奇跡を起こしたのです。漢方の抗ガン剤などを飲むことによりわずか2ヶ月で腫瘍マーカーが34にまで下がりました。医師は「信じられない」を連発するばかりでした。さすがにベッドから離れられない生活ですから、徐々に体力は落ちていました。声もかすれて、大きな声は出なくなっていました。でも、頭はしっかりしていました。毎週私が出演している「報道2001」を楽しみに見ていてくれて、終わった後には必ず電話で感想を聞かせてくれていました。
中西医結合医療を実践してくれた未病医学研究センター所長・劉影(リュウイン)先生にとっても父の劇的回復は驚きの連続だったようです。彼女は言います。
「漢方の哲学では気血水のバランスを取ることが人間の身体にとって最も大事なことだと考えます。お父さんに対してもガン細胞を攻撃するよりも、身体全体の免疫力を高めていくことを優先したのです。お父さんの場合、その免疫力がガンを封じ込めるまでのチカラになったということです。それと、お父さんは常に淡々としておられました。人生を達観したかのように、すべてを受け入れる気構えができていました。その心の有り様が気のチカラを高めて、“奇跡”を呼んだのだと思います」
84歳の誕生会で、父は飛騨牛のステーキを一人前、ペロリと平らげ、ビールも美味そうに飲みました。もともと酒好きの父でしたから、久々に飲むビールはよほどうれしかったのでしょう。コップ一杯をあっという間に飲み干すと、すぐにもっと注いでくれとの催促です。ナースでもある義妹は心配して反対しましたが、子供のように恨めしそうに催促を続ける父に負けて、私が再びコップを満たしました。結局父はコップ三杯、400ccほどのビールを飲んで、ご満悦でした。それからわずか2週間で突然の別れが訪れるとは想像もしていませんでした。
肝臓ガンと胃ガンがある患者がこんな風にステーキを食べたり、ビールを飲んだり、できるでしょうか?気持ちはあっても実際には無理でしょう。ガンになっても美味しいものを食べて、飲みたい酒も飲んで、朗らかに笑い、それで死んでいけたらこんなに幸せなことはないでしょう。父はそんな理想的な人生の終演を見せてくれたのです。
圧迫骨折して去年の9月からは、長年住んだ神戸を離れて、大垣市の弟夫婦にみてもらっていました。私が訃報を聞いて駆けつけたのは死亡時刻から4時間あまりが経過した10時半でした。父は布団の上に寝ていましたが、ただ単に寝ているだけの穏やかでな表情でした。肌もまだ温かくて柔らかで、寝息が聞こえてきそうでした。
母によると、今朝3時半に目覚まし時計が鳴ったのだそうです。合わせたはずもないのにどうして今頃?と思って、隣に寝ている父を見ると、様子が少しおかしかったと言います。父は「胃が痛い」と訴えました。義妹が血圧を測っている間に救急車を呼びました。父は救急車到着前には意識が朦朧となってしまい、そのまま心臓停止になってしまったのだそうです。苦しんだ時間はごくごくわずかだったのでしょう。それがあの静かな死に顔につながったようです。
目覚まし時計の話はなんとも謎めいた不思議な話ですが、もし、あの時、鳴らなければ、母が朝、目を覚ましたら父は亡くなっていたという状況になっていたのでしょう。まさに眠るような大往生でした。入院生活の中で亡くなったのではなく、在宅療養のまま亡くなったことは、残された家族にとっても誇らしいことでした。弟夫婦の献身的な介護があったればこそです。
その夜、私は父と母と3人で川の字になって眠りました。何十年ぶりのことでしょう。とても温かな優しい時間がゆったりと流れていきました。薩摩隼人であることを誇りに思い、家庭では大きな存在感を持っていた威厳のある父親でした。私がこの世に生を受けて以来、父との53年半の歩みをじっくりかみ締めながら、朝を迎えました。
父は幸せでした。私たちに計り知れないくらいたくさんのことを教えてくれました。特に、その人生の終演にあたって見せてくれた見事なまでの生き方、そして死に方。それは私にとっての大きな宿題ともなりました。三人に一人がガンで亡くなるという今の時代に、多くの人は手術はされても、その後、病院を難民のように転々と移動させられ、抗ガン剤などの副作用に苦しみながら亡くなっていきます。
父のようにクオリティオブライフ(生活の質)を優先しながらガンと向き合い、最期を迎えられれば、どんなに多くの人の心が救われるでしょうか。一人でも多く、こんな最期が迎えられるようにするのがお前の仕事じゃないか!父は私にそう語りかけてくれているように思います。今、病院崩壊と言われる厳しい現実が進む中でこそ、逆にニーズが高まっていると言えるでしょう。「末期ガンでもピンピンコロリ」そんなキャッチコピーで、医療のあり方への提言を続けていこうと改めて決心した次第です。