本格的な夏が来たと思ったら、もうお盆を過ぎてしまいました。みなさんはどんな夏を過ごしていますか? 小さな患者さんたちが全体的に落ちつく夏は、小児科医の私にとって1年で最もホッとする季節でもあります。しかし、暑いなら暑いなりに子どもたちの様々な出来事に心配させられるのも小児科の宿命です。今年の夏は、幼い子どもがプールで命をおとすという痛ましい事故も起きてしまいました。
子どもをとりまく環境はいつも大人の世界の裏側のようなものです。大人からすれば、「子どもたちのことはいつもちゃんと見ている」ようなつもりでも、実際には全く見えていない部分が多くあるのだろう・・・、と私は常日頃思うのです。そういった見えない部分というのは、ある日突然大きな症状として現れては、いつも周囲の大人たちを困らせます。プールの事故も、当然ながら責任は行政や管理会社にあるものの、子どもの立場に立つことがなければ、予測をするのは難しい象徴的な事故であり、「子ども」という生き物の本質ではないかと思ったりもしました。
そして、子どもが事故に巻き込まれるとき、往々にして、暗にその親が批判されるということがおこります。これは、大人が管理する子どもの世界において、親という存在がつねに完全なものであることを要求されているからだと思います。実際的にはそういった「完全な親」であるということはありえない話なのですが・・・。
子どもは人間の未来です。それゆえ神格化されたり、社会においても大事にされているのですが、現在の「大事にされ方」「守られ方」については、力をもつ大人たちのゆがんだ欲望を垣間見てしまうのも、私の専門である小児科の現状でもあるのです。今回はそういったことを書きたいと思います。この点は、前回にも書いたように、小児科においてアロマセラピーなどの自由診療の参入に対して、ハードルを高くしているのは一体何なのか・・・、といったことの解説につながっていきます。
まず、小児科医療をとりまく実際的な社会福祉制度について、少々前置き的な、話をしておきましょう。
小児医療という領域は、介護と同じく社会的弱者の分野であるがゆえに、社会福祉行政の大きなテーマのひとつです。それゆえに、小児の医療費は行政が税金で補い、負担を少なくするという政策が多くの自治体でとられています。その助成率や助成期間は自治体によってことなりますが、ここ東京では、6歳までの子どもが対象となり、その助成率は100%です。つまり自己負担は保険診療内において0%となるわけです。
しかしこれには、地方と東京との格差があり、たとえば首都圏の他の地域をみますと、千葉県では3歳までが助成対象となっており、東京都では受診した精算時に窓口ですでに自己負担が0%であるところが、千葉では一旦保険診療負担額を支払い、後日、担当窓口に申請して、助成分を返還してもらうという段階を踏むようになっています。なお、埼玉でも3歳までが助成対象です。助成率については多くが全額助成となっているようです。
助成率と助成期間の差はあれども、この制度は、子育て世代にとってはとてもありがたい制度です。とくに3歳までくらいは、手を替え品を替え、あれやこれやと病気の卸問屋のように、子どもたちは様々な病気にかかっていくのが子どもの生理・宿命です。そんなわけですから、特に小さいうちは行政が助成をするのは当然のことでしょう。
しかし、そこにおもわぬ落とし穴ががひそんでいるということを、実際の診療を通して私は気付きました。
世の中、タダより高いものはない・・・といいますが、「無料」で診療がうけられて、「無料」でお薬がもらえるというのは、受療者を非常に受動的な立場においてしまうということにみなさんはお気づきでしょうか?
「安い」や「無料」といった経済的な選択要素は、他の選択肢を強力に排除するには最適なのです。この「無料」の小児医療制度が、現実的には、医師・医療施設と受療者とのあいだに、一方的な診療方針の押し付けを結果的に生み出してしまっているのです。
日常生活においてよく耳にしませんか?
「タダだから、まあ、いいんじゃない?」、「タダだからもらっておこう」という言葉。それが小児医療の現場に起こっています。
現在の症状に必要な薬は当然処方するとしても、現在必要無しですませることのできる薬も、医療費が無料(タダ)であるがゆえに処方できてしまうのです。子どものために薬を渡された親は、出されたものは一応のませたほうがいいのではないかと思うものですよね。ですから多くの子供達は、必要のない抗生剤などを、そうとは知らずに内服させられているわけです。
一方、無料であるがゆえに、能動的にその他の診療方針を模索するという、受領者の積極性を削いでしまっている、ということも起こっているのです。
私はこれを少しでも理想に近づけるために、「発熱が2日続いたら、この抗生剤も始めてくださいね」「顔色が悪くて、きっと吐くだろうから、吐き始めたらこの吐気止めを使ってください」 などと、事細かにケースバイケースとして、親に考えながら投薬してもらうよう工夫をしています。漫然と不要な投薬をしているのではありません。
子どもの生活のもっと身近に迫っていくと、保育園や学校の園医・校医と呼ばれる医師たちが、本来ならば受療の必要ない子どもたちを自院に来院させるために、検診で子どもたちの多くに来院の必要な診断名をつける。その結果、子どもたちは医院へと通い、受けなくても済むはずの治療・投薬を受けるといったことがおきているようです。私の医院においては、学校検診で通院が必要とされ、校医さんの医院を受診した結果、1ヶ月分もの薬を処方され、それが本当に必要な薬かどうか相談にみえた親御さんが実際いました。
虚偽の診断をするというのは、医師として医師法に反する違法行為であり、言語道断ですが、そういったことは、いわばグレーゾーン、「医師の裁量権」という名の、医師が弁明できる範囲で行われているのが実情です。
本来は、社会福祉的な観点で始まった乳児医療制度が結果的に悪用され、「子どものため」「子育て支援」という美名のもとに、診療点数・医薬品にまつわる大人社会の利権問題が、外からは一見なにも起こっていないかのように隠されて行われているのです。
高齢者をとりまく医療に関しては、政治・行政を司る人間たちも、明日はわが身と躍起になって法整備・サービスの拡充を図っています。例えば、約3ヶ月で入院先を転々とさせられる高齢者に対しては、社会がみな注目する問題であっても、医療を無料で受けられる乳児医療制度は、だれもそれが利権の隠れ蓑となっているということを批判することはなかったのです。その利権に潤っている人を除いて気が付く余地もなかったでしょう。
「子ども」という高齢者と相並ぶもうひとつの社会的弱者の分野は、その主たる関係者の多くが、家庭においても公共的なサービスにおいても女性が多いゆえに、対応が後回しであるのみならず、男性的な政治理論の中で利権を生み出す隠された構造とされてしまっているのです。
子どもの数だけ、個性がある・・・。本来ならば、個性の数だけ施療方針にも多様性が与えられてもおかしくないはずです。昨今では、高齢者医療や末期医療においては、自由な施療計画が尊ばれるようになってきました。
小児医療においても、本来ならば、その保護者である親や子どもが「この薬はさけたい」「こういう入院にしたい」「自然なやりかたで治療を受けたい」「高くてももっと効く薬がいい」などとニーズは多様にあるはずです。しかしその本音のニーズが「無料」という魔法の言葉で封じ込められてしまっているのが、現行の小児医療制度の見えない弊害であるのだ、と長年現場に携わってきた結果、私は思いいたるようになりました。
私の医院では、8月から自費診療によるアロマセラピーを導入しました。対象は誰でも困る「虫さされ」・「とびひ」・「あせも」などのとてもポピュラーな疾患です。
でもこうした日常的な疾患だからこそ、「ステロイド薬や抗生剤など、これまでの治療薬一辺倒で本当によいのか?」「ただだからといって、こうした投薬を夏の間に何度も何度もくり返してよいのか?」という疑問が湧きあがってきたのが、その最初のきっかけでした。夏休みをはさみ、まだ実際にはさほど日数が経ってはいませんが、無料の薬になれていた親御さんたちが、安くはないアロマセラピーの院内処方薬に対して、興味をもってくださっています。実際には、実費程度でお分けしていますが、持って帰られて使ってくださった方は満足してくださっているようです。
この結果を私は驚きをもって受けとめています。もちろん、繰り返し病気をする子どものたちの基本的な診療・施療は無料であるに越したことはありません。しかし、そこにこれまでの医療制度には組み込まれていない能動的なオプションの施療内容があるというのは、患者さん方の実際のニーズに適っていることのように思えてならないのです。有料でもいいから、安全で安心できるものを・・・と考えている患者さん(親御さん)は本当に増えています。
「無料」・「安さ」といった経済的な助成のみが、ニーズを充たせた時代から社会は変化成長し、より一層人間としての健やかさを求める時代へと変遷しているのでしょう。
子どもの数だけ個性がある。施療内容を狭い範囲に限定せずに、子どもたちの個性をより輝かせる、そんな小児医療を提供していきたい・・と思う今年の夏です。
うーん、そう思うと・・・だから、小児科って、やめられないんですよね!
残暑が厳しくなってきます。体に気をつけて、がんばりましょう。