第13回 東日本大震災の被災地でのボランティアナース活動
東日本大震災の被災地でのボランティアナース活動
黒岩:お久しぶりです。まずは東日本大震災の被災地での活動について、お聞かせいただけますか。
菅原:お久しぶりです。震災が3月11日に起き、私どもは19日に藤沢市を出発し、現地に入りました。本当は16日に入る予定だったのですが、阪神大震災のときにもお世話になった団体から情報が入り、一旦、延期したのです。それで19日に入ったところ、ものすごい状況になっていました。
黒岩:どこに入られたのですか。
菅原:気仙沼に入りました。
黒岩:どうやって行ったのですか。
菅原:車です。ガソリンがなく、高速道路も封鎖されているという情報もありましたが、夫が中古車の販売業をしている関係でネットワークがあり、情報が入ってきたのです。その情報とは医療職であれば高速道路に入れるというものでした。事前に警察に届ければ、緊急車両の手続きが簡単に取れたのです。そこで全国のキャンナスの仲間に看護師免許を持って警察に行くように通達しました。高速道路の中のガソリンスタンドは自衛隊も通るからでしょうか、ガソリンは豊富にあったのです。八戸のメンバーも高速道路までは何とかガソリンがもちそうと言ってきましたので、集合できました。
黒岩:最初は何人で行ったのですか。
菅原:8人です。ワゴン車2台に分乗して行きました。
黒岩:現地ではどうやって活動拠点を作ったのですか。
菅原:私どもが事前に被災地に行くことをネット上で表明したところ、気仙沼に来てくれと知り合いの医師から言われましたので、気仙沼に入りました。最初は看護師としての役割を果たせないのではないかと不安もありましたが、すぐに状況が分かってきました。
黒岩:どういう状況だったのですか。
菅原:体育館を利用した避難所の1階に「救護班」という看板が出ていて、そこには医師、看護師、検査技師が大勢いて、材料も豊富でした。でも避難されてきた方々のいる場所はすし詰めの状況だったのです。医師や看護師は救護班に来た方々の診療はするけれど、そこには出向かないんですね。私どもは訪問看護師ですから、そこに出ていきます。そうしたら、咳をしていたり、毛布一枚で寒さに震えていたり、褥瘡ができかけていたりという、多様なニーズがたくさんありました。
黒岩:さんたちは地域の方々の生活の中に入っていく経験があったので、そういうニーズに気付くことができたのですね。
菅原:お手洗いもとても汚かったんですよ。私どもにはそれを片付けないといけないという発想があるので、最初はお手洗いの掃除から始めました。ヘドロの付いたままの靴で逃げてこられていた方ばかりなので、ほこりも舞っていました。そこで食事をしたり、寝たりするわけですから、環境としては最悪でしたね。私はキャンナス松戸の安西を置いて、一旦、藤沢に戻りました。
黒岩:戻られてからはどういう被災地支援をなさったのですか。
菅原:安西から「ダイソンの掃除機を5台、送って」と頼まれたのです。「何でダイソンなの」と尋ねましたら、「1800人が床に寝てるんだから、ほこりが出ないものでないと意味がない」と言うんですね。慌てて、コストコに買いに行きましたよ(笑)。
黒岩:なるほど、ほこりが舞わないよう排気のないサイクロン式の掃除機がいいんですね。
菅原:5台で30万円かかりました。お金は仕方ないですけど、安西は「さらに5台」と言ってきたんです。さすがに、皆さんに寄付をしていただかないと続かないと思い、ご協力のお願いをネットやメーリングリストに出しました。そうしましたら、以前、対談したことがある方が日本ダイソンの方を連絡してくださり、150台を寄付していただくことになりました。
黒岩:150台はすごいですね。
菅原:その後、350台にまで増えたんですよ。外資系企業の素早さには驚きますね。ダイソンでは2011年中に被災地に送る掃除機の数を350台と1カ月で決めたそうで、キャンナスがその窓口となりました。私どものような小さな団体を窓口に決めてくださるなんて有り難かったです。お蔭様で行政や避難所に配ることができました。
被災地で行政はどうあるべきか
菅原:ほかにパラマウントにもお世話になりました。褥瘡ができ始めていた方が多かったので、ネットを通してエアマットレスをお願いしたところ、無圧のエアマットレスを100枚、送ってくださることになりました。ところが行政から門前払いされたのです。
黒岩:本当ですか。
菅原:行政の言い分は私どもの行動は公平性を保てないというものでした。そこで、問題が起きたときにキャンナスが全責任を取るという文書を書いたのです。エアマットレスを引き上げるときはパラマウントが行うという文書もパラマウントの好意で出しました。神奈川で起こったときはそうならないようにして下さいね。
黒岩:本当にそうですね。そうなってしまいがちですものね。
菅原:行政はトラブルが起きることとかを避けたがりますね。下着メーカーが女性用下着を500枚、送ってくださったときも物資庫へ届けてくれと言うんです。数が揃ったら配るということでしたが、一度、物資庫に入ってしまったものはなかなか届かないんですね。私どもも「失禁した方がいるので、ズボンを1枚お願いします」などという伝票を書いていましたよ。
黒岩:日赤で集めた義援金がなかなか配られなかったという問題もありましたよね。行政は平等に配りたかったようですが、とある民間の組織が配ったら、列に並び直した人はいなかったし、たまたま2回、取ってしまった人は戻しに来たそうですよ。私たちも行政の一員として、今のお話はいざというときのために考えておきたいです。気をつけておかなければならないテーマですよね。平等性というのは悪気はないのですがそういう発想になってしまっているところがあるんですね。
菅原:トップダウンの弊害も感じました。その避難所は体育館と武道館が併設されていましたので、館長が2人いらっしゃるんです。その2人の許可がないと動けないことが多く、私が宮城県知事になってやろうかと思ったこともありましたよ(笑)。現場の保健師は素晴らしい活動をしているのに、上からの許可がないことで活動を制限されることがありました。県知事が「現場でできる精一杯のことをやってください。全責任は私が負います」と言ってくれれば、動けるんです。トップの方々も必死に仕事されていたのは分かりますが、被災地で従来の指示命令系統を活かそうとするのは難しいのではないでしょうか。
黒岩:神奈川県の職員も震災直後から長期に渡り被災地に入りました。しかし、真っ先に入った職員とシステムができあがってから行った職員では全く違う活動をしてきたんですね。震災直後は命からがら逃げてきた人たちが避難所に来て、避難所のルールもない状況でした。職員は体育館の中でどう寝るのか、荷物をどう置くのか、トイレをどうするのか、救援物資をどう整理するのかといったルール作りから始めたのです。こういった体験談を聞きますと、彼らは公務員としていい経験をしてきたなと思いました。
公務員は何をする人なのかという原点を基本的なルールを作ることで学べたと思います。ルールができたら、地域の方々に任せられるし、リーダーを決めていくこと、民間に任せることもできますし、問題が起きたときの対応も考えられるのです。公務員の仕事は自分がやる仕事はこういうものなんだといわれて代々、受け継がれているものが多く、根本を問い直す機会があまりありません。私は民間出身ですから、疑問に思うことがよくあるんです。そこで、職員に「その仕事は公務員でないとできないのか」と尋ねますと、きょとんとされるんですね。それでよくよく考えれば公務員じゃなくてもいい仕事かもしれない。ということに気付いたりするんですね。
菅原 由美 プロフィール
1955年に神奈川県に生まれる。1975年から20年間、日本赤十字救急法の指導員として救急員の養成に携わる。1976年に東海大学医療技術短期大学第一看護学科を卒業後、東海大学病院ICUに1年間の勤務後、結婚と介護のために退職する。介護のかたわら、企業の診療所や保健所などに勤める。1995年に阪神大震災にアジア医師連絡会(AMDA)のメンバーとしてボランティア活動に参加し、クロアチアやサラエボでも活動を行う。1997年に訪問ボランティアナースの会であるキャンナスを設立する。1998年に有限会社ナースケアーの役員に就任する。1998年に神奈川県の委嘱を受け、3人の知的障害児の里親となる。2004年に『日経ウーマン』のリーダー部門の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2005」を受賞する。東海大学医療技術短期大学非常勤講師に就任する。2009年にナースオブザイヤー賞、インディペンデント賞を受賞する。キャンナスを鳩山総理が視察する。2011年に東日本大震災の被災地で災害ボランティアナースとして活動を行う。
開業看護師を育てる会理事長、日本臨床医療福祉学会評議員、藤沢市介護保険事業所連絡会代表幹事、管理者部会長、日本神経疾患医療福祉従事者学会評議委員、NPO法人全国在宅医療推進協会理事、藤沢市高齢者虐待防止ネットワーク副代表、日本在宅医療学会評議員、さわやか福祉財団インストラクターなど。