第20回 「いのち」というキーワード

第20回 「いのち」というキーワード

小池 智子
慶応義塾大学看護医療学部准教授

「いのち」というキーワード

黒岩:今の日本は科学が進歩して、経済的にも豊かになりました。そして、多くの職種があり、それぞれが専門性を高めています。私はよく医療者に「あなたはいのちに向き合っていますか」と尋ねるんです。彼らは病気には向き合っている自覚がありますが、いのちに向き合っているかと問われると、一瞬、驚かれます。でも、すぐに大きく頷きますね。

小池:そうでしょうね。

黒岩:一番、面白い反応だったのが歯科医師です。歯科医師に「私が期待する歯科医師像はいのちに向き合う歯科医師です」と言うと、皆さんが嬉しそうな表情をされるんですね。歯科医師は虫歯や歯周病を治したり、歯がぐらついているときに駆け込む「歯のお医者さん」だと一般的には認識されていますが、そういう面だけではなく、私はいのちに向き合い、いのちを支え、いのちを輝かせる仕事だと思います。歯がしっかりしていることは食べ物を美味しく感じるための原点なのです。

小池:食べるための基本は歯ですものね。

黒岩:食のあり方は気を高めるうえでも大事です。80歳になっても自分の歯を20本以上保つための取組である「8020(ハチマルニマル)運動」を進めているのもそこにありますね。歯が元気であれば、まさにいのちが輝くのです。しかし、こうしたメッセージがなかなか理解されません。

小池:どうしてでしょうか。

黒岩:医師、歯科医師、看護師、薬剤師といった職種間の連携が一体とならないんですね。同じ方向を向いているようですが、本当のチームプレーにはなっていません。私は神奈川県立保健福祉大学で毎年、講義を行っていますが、栄養士であれ、介護福祉士であれ、いのちに向き合う仕事だと言っています。「いのち」というキーワードで一体となることができるんです。ただ、この認識が最も遅れているのが医師かもしれません。 医師は専門性をより高めてきていますし、多様な専門科に分かれています。それだけにともすれば病気だけ診ていて、いのちを見ていないこともあるのではという思いがあります。それも最近は変わってきていると思いますが。

小池:その反省に立っているからこそ、多くの医療系大学で専門職連携教育が始まったのではないでしょうか。そういう専門性に立ったときに、一つの専門職種はある側面については詳細にみることができますが、それだけでは全体をつかむことができません。専門職連携教育は多くの専門職が連携し互いに補完し合うことで、患者さんの全体像を深く理解して患者中心のよりよい医療をおこなうことを目指しています。そのためにお互いの専門性を知り、パートナーとして尊重し合うことを大切にしましょうということです。それにしても、知事はキャッチフレーズを作られるのがお上手ですね。「いのち」というキーワードだと、多様な専門職がまとまりやすくなります。

黒岩:「いのち」という言葉は繰り返し言っていますね。これを私に教えてくれたのは「葉っぱのフレディ」です。日野原重明先生と2000年からご一緒にやってきた、このミュージカルの上演も今年で14年目になります。春に葉っぱが生まれ、夏に木陰を作り、秋に紅葉して、冬に散っていきますが、散った葉っぱは死んでしまったのではなく、春の新しい葉っぱのためのエネルギーになります。いのちは巡っているのだということを気づかせてくれる物語ですね。観ながらいつも涙していますし、哲学的なことなど、多くのことを考えさせられます。

「いのち」で役所の壁を超える

黒岩:2008年に北海道洞爺湖サミットが開かれ、環境問題が大きなテーマになりました。サミットの際、「葉っぱのフレディ」を環境バージョンに変えて上演したのです。そこでのキーワードは、「循環」でした。日野原先生も私も医療からアプローチしていましたが、循環型社会は環境問題からのアプローチであり、農業のあり方も同じ文脈で考える必要があります。ここで「いのち」というキーワードを出すと、経済はいのちを支えるためにありますし、防衛や安全保障、外交もいのちを守るためにあります。いのちは教育の大きなテーマでもあります。「いのち」というキーワードで全てに渡って繋がっていて、医療はその中の一つに過ぎません。でも、環境問題も医療問題も教育問題も別々になってしまっているのは役所の壁があるからなんです。役所の区分があり、役所の基準で考えてしまうんですね。食と医療は不可分なのに、食は農林水産省、医療は厚生労働省と分かれているのが良くないです。

小池:ラオスでは、医療は何のためにあるのかを考えさせられます。健康はとても大切です。健康でなければ学校で勉強を続けたり仕事や社会活動に参加しにくくなります。しかし、健康は人生の目的でしょうか。健康であっても、教育を受ける機会や仕事がなかったら、なにかを成し遂げる機会を奪われているとしたらどうでしょう。健康を支えつくる医療も重要ですが、働く場があること、働ける環境を整備すること、教育をきちん受けられるシステムもまた同じように重要です。また、病院を建設しても、病院までの道が整っていなかったら、住民がこれにアクセスすることも病院の職員が村にアウトリーチすることもできません。ラオス研修は3月に行っているのですが、乾季にも関わらず、ちょっとした雨で道がぬかるみ、バスの車輪が泥にうまってしまい、目的地に着けないこともありました。医療を利用しやすくするためには、道路などのインフラ整備も必須です。

黒岩:学生たちはラオスで多くのことを学べますね。

小池:医療を学んでいると、健康や保健医療のことばかりに目が向きがちですが、これだけでは住民の健康問題は解決できないこと、教育や経済やさまざまなこと全てが繋がっていることに、ラオスでは自然に気づくことができるのです。プライマリヘルスケアは、ヘルスの部分のみならず、それを支えていくための食、衛生、道路や電気などのインフラまでも含んでいることを改めて考える貴重な機会になっています。でも、日本では行政が縦割りにしてしまっているんですね。

黒岩:役所の壁は想像以上に高いです。ただ、県庁は国の組織ほどではありません。それぞれの専門分野で勤務していても、保健福祉局から環境農政局に異動するなどの人事交流は普通に行われていますからね。しかし、国の官庁は入庁したら、ずっとそのままです。私は今、医療と食をクロスさせていくことを考えています。私は「医食農」という表現をしてきましたが、この言葉は皆さんに理解されやすいんですね。いのちにとって食は非常に大切であり、食のあり方を改善することで、病気にならないような生き方を推進していきたいと思っています。

小池 智子 プロフィール

1960年に岩手県釜石市に生まれる。
1982年に慶應義塾大学医学部附属女子厚生学院を卒業後、慶應義塾大学病院に入職する。
以後13年間、臨床や現任教育に従事する。
2001年に東京医科歯科大学大学院保健衛生学研究科博士課程を修了する。
2001年に慶應義塾大学看護医療学部に講師として勤務する。
2007年に慶應義塾大学看護医療学部・大学院健康マネジメント研究科准教授に就任する。

その他役職等
慶應義塾大学病院看護部キャリア開発センター副所長
日本看護管理学会理事、日本在宅看護学会理事、
神奈川県看護協会・東京都看護協会等の認定看護管理者教育課程「ファーストレ ベル」、「セカンドレベル」講師、
千葉大学認定看護師教育課程(乳がん看護)講師 など