vol.14 私達、ナースです!

Vol.14  救急救命士の資格取得を目指す看護師 東山 陽人さん

救急救命士の資格取得を目指す看護師
東山陽人 (とうやま はるひと) さん

救急医療体制の整備に伴い、プレホスピタルケア(病院前救護体制)の重要性の認識が広まってきた。救急救命士は、これまで医療の空白地帯であった搬送途上で救急救命措置を行うことができる。
この免許取得者は救急車での搬送を担当する消防士がほとんどを占めているが、昨今、看護師の中にも救急救命士免許を取得し、救急医療により深く携わりたいという流れがある。
この稿でご紹介する東山陽人さん(31才)は正看護師として5年あまりの勤務を経て、救急救命士の免許取得を目指す専門学校に通学している。今春、卒業と同時に免許も取得予定であり、岸和田徳洲会病院(大阪府岸和田市)の救急外来に就職が内定している。

東山さんは高校が電子科だったそうですね。看護師としては珍しい専攻なのではないですか?

 そうですね。出身は愛媛県の北宇和郡吉田町です。現在は合併して宇和島市となっています。吉田高校で電子科に進学しようとした理由は、当時ファミコンが大流行しており、私もゲームを作りたいなあと思ったことです。ただ電子科で学習したからといってゲームプログラマーになれるほどには才能もなく、将来については色々と考えました。
 そんなときに電子科の1つ上の先輩が男性として初めて正光会宇和島病院准看護学校に入学したことで地元の新聞に紹介されたんです。その記事を読んで興味を引かれ、私も准看護学校に見学に行きました。

そして東山さんもその学校に進学したわけですね。どういう学生生活だったのですか?

 私の家はみかん専業農家です。みかん山のほかに当時はハウスでの栽培もしていました。午前中は家業を手伝い、昼から学校に通っていました。2年間通って准看護師の免許を取得し、最初は母体の宇和島病院に勤めようかと自然に考えていたのですが、看護学校の先生方が正看護師の免許を取るようにと勧めてくださったので、さらに進学することにしました。

そこで松山市の松精看護専門学校に進学されたのですね。こちらでは、いわゆる勤労学生だったそうですね。

 母体の病院である松山記念病院に勤務しながらの学生生活でした。松山記念病院は精神科の急性期病棟と老人病棟がありまして、両方で経験を積むことができました。午前中は病院で准看護師として勤務し、午後は学校です。そして夜中や深夜の勤務に就くこともありました。ただ松山記念病院の看護師の方たちはほとんどが松精看護学校の出身で、勤労学生の辛さをかなり分かってくださっていたんですね。よく「休憩していいよ。」と声を掛けてくださいました。

東山さんの世代では看護学校も女子学生がほとんどだったのではありませんか?

 その頃は女性看護師700人に対して男性看護師2人と言われていましたからね。クラスに男性は私一人でした。特にやりにくさはなかったですね。たまたま私のクラスは新卒の人が少なく、クラスメートはほとんどが年上でした。それで、食事のおかずをもらったりして、楽しかったですよ(笑)。

卒業後の勤務先を京都第一赤十字病院に決めた理由をお話しください。

 松精看護学校での2学年上の男性の先輩が就職していたことが大きな理由ですね。地元を離れるわけですが一つの経験として行ってみたいという思いが強かったです。当時の病院は建て替えの前で、何だか防空壕のようだなあというのが第一印象でした(笑)。手術室に配属されましたが、これまで経験のあった精神科とは全く世界が違いましたね。

5年あまりの間、いわゆる高度医療を体験したわけですよね。

 その先輩は京都第一赤十字病院の男性第一号の看護師でした。まだ男性を雇用する体制が整っていなかったので、病棟勤務ではなく手術室に配属されたんです。最初は手術室に冷たい印象もありましたし、電気メスの独特の臭いが苦手だったんですよ。でも、すぐに慣れることができました。今は手術室勤務の看護師のためのビデオがあり、そこでマニュアル化されているのですが、当時は先輩方に尋ねるしか仕事を覚えていく方法がなかったんです。例えば次の日の手術の内容が初めての経験のときには何も情報がありませんので、その先輩の家にお邪魔して細かいことまで教わりました。先輩も非常に丁寧で「この先生は、この糸が好きだから出しておくといいよ。」など具体的なアドバイスをくれました。

京都第一赤十字病院で学んだことが救急救命士を目指すにあたって、どのように影響を与えたのですか?

 ちょうど建て替えの時期でしたので、病院が三次救急を含めて受け入れ件数の増加に力を入れていたんですね。そのおかげで多くの症例を経験することができました。そこで感じたのが連携の重要性ですね。救急外来とICUの連携、術室と病棟の連携だけでなく、消防署と病院の連携の必要性に気づかされました。お互いが一つ一つの技術や知識といった情報を共有することで本当のチームワークが生まれるのではないかと考えたわけです。そこで、プレホスピタルの情報を病院に入れることができる架け橋になりたいという思いから救急救命士の免許取得を目指すことにしました。

大阪医専救急救命学科を進学先に選んだのはどうしてですか?

 一番の理由は、東大阪市の大阪府立中河内救命救急センター、岸和田徳洲会病院など実習場所が豊富にあったことでしょうか。今回も勤労学生をしていまして、大阪市の日本予防医学協会で検診の看護師をしています。病院は患者さんが来てくださるところですが、検診は企業のスタンスが求められますので、営業の人たちを見ながら名刺の渡し方から気の遣い方まで、とても勉強になっています。
 岸和田徳洲会病院からは救急部部長のドクターが講師で来てくださっていて、救急隊との連携を大切にしている話を常々伺い、「頑張っているなあ」という好印象を持っていましたので、結果として就職の内定を頂いたときは嬉しかったですね。

岸和田徳洲会病院では、どういう仕事をしていきたいですか?

 救急外来に配属されることが決定していますので、できたらドクターカーにも同乗してみたいですね。声掛けを丁寧にするなど、患者さんとのコミュニケーションを大切にして「上からモノを言わない」ことを今後も心掛けたいと思っています。そういったサービス業として、どうあるべきかという姿勢を私どもが持てばクレームの減少にもつながってくるのではないでしょうか。

救急救命士として働くことは考えていないのですか?

 大阪府立消防学校で消火訓練なども体験したのですが、体力的に少し難しいかなと思いましたし、あくまでも看護師として働いていくつもりです。
 ただ、最近ではAED(自動体外式除細動器)を公共スペースに設置していく動きが広まり、一般の人でもAEDを扱うことができるようになりました。そこで、その使い方を講習することができる「応急手当普及員」という資格を取得しました。これまで応急措置は気道確保のA、人工呼吸のB、心臓マッサージのCの、いわゆるABCと言われてきましたが、AEDはABCよりも高い救命率があります。医療人は必ず使えるようになるべきですね。
 これまで消防隊員の多くは「火消し」を行い、救急隊員になっても「搬送だけでいい」という考えがあったようですが、今の若い人たちは非常にモチベーションが高いですね。彼らといい連携を保っていきたいと思っています。

東山さんの趣味についてお話しください。

 最近は街中でも温泉がたくさんありますので、休みの日にはそういった身近な温泉に通っています。

最後に、看護師を目指す人たちにアドバイスを送って頂けますか?

 特に「男性陣、頑張れ!」と言いたいですね(笑)。高齢者に優しくできる人がやはり向いていると思います。私の実家はみかん農家ですので自然を相手にした仕事です。私は人間を相手にする仕事をしたかったので看護師を目指しました。曽祖父、曾祖母もいた大家族で育ったので、高齢者に慣れていた面はよかったと思います。手術がうまくいったり、外来に厳しい状態で来院した患者さんが元気を取り戻して廊下を歩いていたりするところを見ると、満足を得ますし遣り甲斐もあります。男性看護師を受け入れる体制も整ってきたので、是非挑戦してほしいです。

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