昨今、検察の取り調べの在り方に疑念を生じさせる事件が相次いでいます。不正郵便事件で逮捕された厚生労働省の村木局長への無罪判決で、検察の取り調べがいかに杜撰かが浮き彫りになりました。その驚きも冷めやらぬ中、あろうことか、事件を担当していた主席検事がフロッピーデスクを改竄していたことが発覚し、逮捕されるという事態にまで発展しました。実は看護界においても、同じような出来事がありました。
2007年、「看護師爪はがし事件」とセンセーショナルに伝えられた“虐待ナース”に無罪判決が出たのです。北九州八幡東病院(北九州市)の元看護課長、上田里美被告(44)は認知症患者2人の足の爪を深く切って出血させたなどとして傷害罪に問われ、一審の福岡地裁では懲役6月、執行猶予3年の有罪判決が出ていました。その控訴審判決が9月16日、福岡高裁であり、陶山裁判長は「正当な看護行為であり、傷害罪は成立しない。捜査段階の自白は、捜査官による誘導の疑いが残る」として、逆転無罪を言い渡したのです。
私は「黒岩祐治のメディカルリポート」(医療福祉チャンネル774・CSスカパー)の中で、かつて一審判決の前にこの問題を取り上げ、渦中の上田さんのインタビューを放送したことがありました。これはテレビで初めてでしたから完全なスクープインタビューだったのですが、後からインタビューした某局が勝手に自分たちの独占スクープだとして放送し、悔しい思いをしたことも記憶に新しいところです。
そもそもこの事件が明るみに出たのは、2007年6月、北九州八幡東病院が突然記者会見を開き、院内で「認知症高齢者のつめをはがす虐待」があったと明らかにしたところからです。通常は事態が明らかになってから、病院が記者会見などで説明を強いられるというケースがほとんどです。病院が機先を制して自ら情報を明らかにするというのは珍しいことだっただけに、その段階でメディアが疑義をはさむ余地は全くありませんでした。
マスコミがいっせいにセンセーショナルに伝えたのは当然のことでした。それから警察も捜査に入り、1週間後には看護課長だった上田里美被告を傷害容疑で逮捕しました。「(爪はがしは)業務上のストレスが原因のひとつだったかもしれない」と彼女自身が警察の取調べで語っているという記事が新聞紙面に躍りました。「爪はがし」というおどろおどろしい表現とあいまって虐待ナースとしてのイメージが作られていきました。
その後、北九州市の尊厳擁護専門委員会の「高齢者の質向上委員会」が虐待を認定し、上田被告は起訴されました。病院が最初に「虐待」と発表したことから、メディアも警察も専門委員会も疑うことはありませんでした。専門委員会は本人から事情を聞きもしないで、虐待を認定していたと言います。伊藤直子副委員長は言います。
「虐待が行なわれたという(病院による)記者発表が先にありまして、さまざまな事実を合わせた結果、(その事実を)確認したということです。警察に逮捕されるという状況がありましたので、ご本人から直接お話を聞く機会はありませんでした」
この委員会は患者側の利益を守ろうという意向が強かったためでしょうか、看護師の話も聞かないままに、病院と警察の意向をそのまま鵜呑みにして、結論を出してしまったようです。その判断の根拠として伊藤氏は次のような点をあげました。
「そのケアについて、医師の指示がないこと。フットケアを数人の方にやってらっしゃるわけですが、途中でケアの必要がないと看護の上司から止められたにもかかわらず、それが続けられたということ。ご自身の意思表示が非常に出来にくい患者さんであったこと。そのケアの内容について、その必要性も含め、記録がないこと・・・などですね」
この逮捕に「虐待ではなく、適切なフットケアだった」といち早く疑義を表明したのは、日本看護協会でした。当時、調査にあたった日本赤十字看護大学の川嶋みどり看護学部長は、このニュースに接したときのことを次のように語りました。
「以前に京都で虐待したというニュースがあったので、ああ、またやったかと思いました。ただ、その後、その患者さんの足の爪の写真を見たんです。直感的に思いましたね、これは虐待ではないって。爪を強引にはがしたのなら、血だらけになってたいへんなんですね。ところが下から小さな爪が生えていたんですよ。老人の爪をそのままにしているとタオルケットなどにひっかかって危ないんです。この方の場合はキチンとフットケアが行なわれていたんじゃないかと思ったんだすけど、看護師はすでに逮捕されていましたからね。これはおかしいなと思いましたよ」
高齢者の爪は白鮮菌で感染しやすくなり、人によってはちょっとした刺激で剥がれ落ちてしまうのだそうですね。また、歩く機会が少なくなってくると巻き爪になって肉に食い込んできたりもするそうです。そうなると炎症を起こす可能性もあるので、ナースはいわゆるフットケアをきめ細かくやっていく必要があります。よほど難しい例以外は、通常はナースの判断で行なうものだと言います。
その当事者の上田被告が私たちのカメラの前で真相を語ってくれました。彼女は新しい病棟に移動した直後にこの事件は起きたのでした。
「(こちらの病棟では)ほとんどの方がある程度、爪が伸びている、あるいは危険な状態にあったんじゃないかなというふうに考えます。どうしてもそういう患者さんの状態を見たときには、やはり放っておけないというのが正直なところありましたので、必要だったから私は爪きりという援助をしました」
彼女の行為は内部告発によって明るみに出ましたが、それは同僚の看護師たちによるものだったようです。上田被告は言います。
「今まで自分たちがこれでいいんだという形で病棟運営をしてきたんだと思うんですね。それをポッと来た一人に否定されたんですから、反感は買うと思いますよ」
彼女の話を聞くかぎり、丁寧にフットケアを実践していた熱心なナースという印象であって、とても虐待をしていたとは思えませんでした。それなのになぜ彼女は取り調べの中で「業務上のストレスが原因のひとつだったかもしれない」などと供述したのでしょうか?供述調書にも「爪切り自体に楽しみを覚えていた」となっていました。
「私はそんなことは全く言っておりません。危険な爪を見ると、なんとかしてあげたいという気持ちであったことは間違いではありません。どうしてそれがそういう表現になるんでしょうか?なんらかの情報を記者さんも集められたからなんでしょうね」
取調べの中での会話は捜査員によるリークでしょうが、捜査に思い込みがあったことは間違いありません。川嶋さんは言います。
「フットケアの爪切りは神経使いますからね、ストレスがあったらできませんよ」
冤罪というのはこうして作られていくのですね。上田さんは取り調べの中でだんだん抵抗する気力を無くしていったそうです。
「刑事さんからは(患者さんの)家族の方が非常に怒っているんだという話がありました。だったらもう自分が刑務所に行かなくては納得してくれないだろうとは思いました」
逆転無罪判決を出した陶山裁判長は自白調書について「『剥離』や『剥いだ』という、被告の行為と合わない表現が多用されており、警察や検察による供述の押しつけや誘導があったと疑わざるを得ない」と指摘し、動機を含む自白調書全体の信用性を否定しました。
実は逮捕から3ヵ月後の9月に「虐待ではなかった」という検察側の発表がありましたが、それを報道したのは地方版の一紙だけだったと言います。ほとんどのメディアは無視したわけです。虐待でなければ爪はがし事件として大々的に報道した面白味が激減してしまうと判断したのかもしれません。
一審で有罪判決が下りた時は私も驚きましたが、ようやく無罪となり、上田さんの笑顔をテレビで拝見し、私もホッとしたところです。今回の判決を報じる新聞記事はいつの間にか「爪はがし事件」ではなく、「爪切り事件」と表記を変えていました。結局、これは明らかな冤罪でした。捜査の在り方そのものが大きく問われ直さなければならないのは言うまでもありませんが、同時に警察・検察の発表やリークに頼り切るメディアの報道の在り方も大きな反省を求められていると私は思います。
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