第57回 黒岩裕治の頼むぞ!ナース

第57回 政府の4審議会のメンバーとして…

 昨年の9月にフジテレビを辞めてから、これまでフジテレビ社員ではできなかったことをあえていろいろとやっています。そのひとつが政府の審議会のメンバーになることでした。今は同時に4つもの審議会に名を連ねています。その中のひとつが厚生労働省の予防接種部会です。日本はワクチン後進国と言われていますが、その現状を変えるために予防接種法を大改正しようというものです。

 日本の政策決定プロセスの中で特徴的なのは審議会方式と呼ばれるものです。役所が審議会を作って外部の有識者に政策課題について検討をしてもらいます。この作業を「諮問」と言います。その結果がまとまると審議会は役所に報告をします。これを「答申」と言います。役所はこの答申を受けて法案作成作業に入るという仕組みです。

 もともとは中曽根元総理が行政改革などの大事業を行なうために積極的に活用したことから一般的になりました。しかし、当時は政権を担ったばかりの中曽根元総理は少数派閥の出身で党内基盤が弱かったために、外部の有識者の意見を取り入れて改革の推進力をつけようとしたものでした。

 当時の財界のカリスマ的存在だった土光敏光さんを臨調の代表に据えたのは、結果的にも大きな成果につながりました。国鉄を民営化してJRにしたり、電電公社を民営化してNTTにしたりという大改革ができたのも、こうした背景があったからこそだったでしょう。

 もともとは政治主導の道具として活用された審議会でしたが、いつの間にか、官僚主導の道具に変質してしまいました。官僚が新しい法案を作成するプロセスとして、外部の有識者なる人たちに意見を聞いたふりをする場となっていったのです。誰がメンバーになるかで議論の流れはだいたい見えてきます。メンバー選定の権限を官僚が行使するわけですから、官僚のシナリオ通りに議論は進むことになるのです。

 脱官僚依存、政治主導を掲げる民主党政権で、審議会はどうなるのか。それはジャーナリストとしての私の最大の興味でもありましたから、審議会の内側から体感できるいい機会ともなりました。

 さて、予防接種部会ですが、結論から言って、政治主導の影もカタチもないというのが正直なところです。事前に官僚が資料を持って説明に来ます。かなり専門的な話に立ちいった議論になりますので、それは私にとっていい勉強の機会になることは間違いありません。論点もキチンと整理されているため、審議会の議事をスムーズに進めるためにも必要なプロセスと言えるでしょう。毎回、レクに来てくれる官僚には敬意を表しています。

 しかし、私は官僚のレク以外からも幅広く情報収集をしてから会議に臨むことにしています。すると、官僚の説明にはなかった新たな論点や、問題点が浮かび上がってきます。そこで会議の席上、私は議論の流れの中で感じた思いも含めて自分なりの考えを発言します。議論の場ですからなんの問題もないはずです。ところが時間になると座長はあらかじめ書かれた台本を読み上げて議論を集約します。私の発言などは少数意見として抹殺されてしまうのです。

 具体的にはこういうことでした。予防接種法の大改正の前に、新型インフルエンザのための法整備ができていないので、その部分だけ手当をするような法改正を先行させたいというのです。それは一見、まともな話に聞こえたのですが、よく見てみると法の不備を補うと言いながら、その改正は抜本改正と真逆の方向性になっていました。それだけでなく、役所の権限が拡大するような内容がいつのまにか盛り込まれていたのです。

 ですから私は声を大にして、先行させる法改正に反対をしたのです。新型インフルエンザに対応するだけの措置なら、特別措置法でいいではないか。予防接種法の本体に変な手を加えることは、抜本改正の趣旨とは反するので止めるべきと主張したのです。

 私は予防接種法とはシンプルなものでなければならないと思っています。今の法律は定期接種と臨時接種に分けて、しかも一類と二類に分けるという複雑な構造になっています。社会的に防衛しなければいけないのが一類、個人で防衛すべきなのが二類というわけです。それぞれの区分に応じて、接種義務があったりなかったり、事故が起きた時の補償額が違ったり、国が費用を負担したりしなかったりと細かく規定されています。こんなに細分化、複雑化されているのは日本だけです。

 敵はウィルスです。途中で変質することもよくあって、一類だったものが二類になったり、その逆もあるそうです。そんな得体のしれない敵に立ち向かうのに、こまごまと対応を規定するというのは根本的に間違っていると私は思っています。要するに、問題が起きた時に国が責任を問われることをなるべく避けようとしてこのようなカタチになってしまっているのです。

 法の不備を補うと言いながら、さらに複雑化するような法改正をするのはおかしいと私は主張したのです。とりあえず、当面の措置なんだからといって、根本的な議論はすべて「抜本改革の議論の中で行なう」という名目で、打ち切られました。

 そもそも予防接種とは何か?そこから議論を始めなければ、議論の方向性は見えてこないはずです。転勤や留学などでアメリカに行くことになった場合、基本的な予防接種を打ってなければ入学ができないのです。予防接種を個人の判断に委ねるという発想自体、アメリカにはないということです。

 一類・二類で社会的防衛と個人の防衛に分けていると言いましたが、そもそも他人に感染する可能性があるからこそ予防接種をするはずです。防衛するかしないかは個人の判断に委ねられていると言っても、予防接種をしていなかった人は他人に感染させる可能性があるのです。ということは、個人で防衛するというよりも、本来は社会で防衛すべきということではないでしょうか。

 予防接種とは健康の安全保障と考えるべきだと私は思います。防衛上の安全保障で個人の任意という概念はありません。私はべつにミサイル攻撃から守ってもらわなくていいから、その分の税金を戻して…という理屈はありえないでしょう。防衛してもらう人に有料の人と無料の人がいること自体もありえません。

 予防接種も法の下で規定したものは全員等しく、義務化すべきでしょうし、費用もすべて無料にすべきです。だからこそ、予防接種法はシンプルであるべきと私は思うのです。ワクチンも薬ですから、副作用の可能性はあります。副反応による事故を100%なくすことは難しいかもしれません。

 でも、国を守る自衛隊のヘリが民家に落ちて被害を出す可能性もゼロだとは言えません。 だからと言って、自衛隊のヘリはなくしてしまおうということにはならないでしょう。同じように、副反応事故の可能性があるからと言って、予防接種そのものを止めてしまったら、逆に病気にかかる人は増えて被害は拡大してしまうでしょう。

 あらゆるリスクを秤にかけて、最小限のところで決断するしかないのです。そのためには、徹底した情報開示が必要です。予防接種による効果もさることながら、副反応事故においても、客観的に検証できるような情報の開示システムが整備されていなければなりません。そして万が一、事故が起きても過失がなければ国も予防接種をした医療機関も責任を問わないようにして、補償だけはしっかりと行なうようにすることが必要です。

 しかし、このような本質的な議論にはいっさい立ちいらずに、新型インフルエンザの法整備を急ぐ官僚、そして座長はそのシナリオ通りに進行させようと必死になっていました。最後に私は声を荒げました。「決めるのは政治家であって、官僚ではない。政治主導を言っている民主党なんだから、最後の判断は政治家に委ねるべきだ」

 それは政治主導に道を拓くための発言でした。しかし、結果的には大臣はじめ厚生労働省に送りこまれている政治家たちは全く反応をしませんでした。そして私の発言などなかったように、当初、予定したとおりの法改正案が国会に提出されることになったのでした。これが今の政権のある面での実態であり、政治主導という言葉のむなしさを痛感した次第でした。

PS この一連のやりとりは大手メディアには全く取り上げられませんでしたが、ネット上では大きな話題になりました。以下のサイトを参照していただけると生々しく伝わってくると思います。

http://medg.jp/mt/2010/02/vol-533.html
http://medg.jp/mt/2010/03/vol-794.html
http://lohasmedical.jp/news/2010/02/21140600.php

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