第34回 黒岩裕治の頼むぞ!ナース

第34回 〜後期高齢者医療制度の波紋〜

 後期高齢者医療制度が不評です。「姥捨て山か?」「老人には死ねと言うのか?」「75歳以上だけを切り捨てようというのか?」「年金生活者のわずかな年金から天引きするなんてあまりに酷い」対象となる高齢者の神経をいたく刺激していることだけは間違いないようです。ただ、そもそもこれは本当にそんなに言うほどヒドイ制度なんでしょうか?

 法律で決まったことが実際に施行された瞬間に、国民全体が大騒ぎするというのは、よくよく考えると実に奇妙なことです。だって、法律というものはみんなの見えないところで、こっそり作られるなんてことはありえないからです。この制度だって、2006年の国会の場で公けに審議されて、成立したものであることを忘れてはなりません。

 ただ、その時は与党が採決を強行しましたから、十分な審議があったかどうかは疑問の残るところではあります。しかし、採決の仕方は別にして、当時、この制度の中味について今のような議論が行なわれていたでしょうか?

 今頃になって、小泉内閣の大番頭だった塩川正十郎さんや自民党の総務会長も務めた大物議員堀内光雄さんまでもが、後期高齢者用の新しい保険証が送られてきてショックを受けたと言います。政策決定の中心にいた政治家ですら、キチンと理解していなかったというのは驚くべきことであって、一般の老人が理解できずに怒りを覚えるのは当然と言わざるをえません。

 政府の説明不足が最大の原因であることは誰しもが指摘するところです。この点についてはマスコミもここぞとばかり、政府への批判を繰り返しています。しかし、私はマスコミの一員として、あまり偉そうなことは言えないなというのが正直なところです。なぜなら、法案成立の2年前当時、マスコミは今、大騒ぎしているような視点で論じていたか?ということです。

 当時の法案の中味とこのたび施行された法律とは当然のごとく全く同じ内容です。当時、話題にもならなかったものが、何故に今になってそんなに大騒ぎをしているんでしょうか?あの当時、75歳以上を切り分けることを「姥捨て山」と言っていたか?保険料の年金天引きに対しておかしいと言っていたか?いずれもノーです。老人の窓口負担が増えることについての報道はありましたが、制度全体に目を向けたものはほとんどありませんでした。

 マスコミには政府に成り代わって説明する責任はありません。しかし、権力のチェック機能であるなら、新たに導入しようとしている制度に問題がないのかどうか、自ら検証することは絶対に必要です。少なくともこの制度について、マスコミはその仕事を怠っていたと言われても仕方がありません。

 私自身も自分の担当している「報道2001」で一度も扱っていませんでした。CS放送の医療福祉チャンネル774「黒岩祐治のメディカルリポート」は医療福祉問題に特化した番組ですが、そこでさえも取り上げていませんでした。特に「メディカルリポート」は私自身が最もホットだと思ったテーマを自ら選んでいる番組なので、今、振り返ってみてもなぜその時扱わなかったのか、自分でもよく分かりません。少なくとも、私にホットな問題だという認識が全くなかったことだけは間違いありません。

 一つでもマスコミが大きく取り上げると、他のマスコミが必ず追いかけてきます。私たちも新聞記事やテレビニュースなどを参考にしながらテーマを探しますから、マスコミ同士が相互作用でホットイッシューを作り上げてくるものなのです。つまり、後期高齢者医療制度がホットイッシューになっていなかったということは、ほとんどのマスコミが注目していなかったということです。

 日本のマスコミはいろいろな批判も受けますが、諸外国と比べて決してレベルが低いわけではありません。優秀な記者もたくさんいますし、みんな毎日、骨身を削るような思いで取材競争を繰り広げていますから、大事な問題を見落としてしまうなどということはまずありません。しかも、後期高齢者医療制度の問題は国会の場で審議されていたテーマですから、そもそも見落とすことはありえません。記者はみんな知っていたはずです。

 後期高齢者医療制度は大きな医療制度改革の中のひとつでした。高齢化社会に対応して持続可能な制度を作り上げるための大きな改革でした。最大の課題は急増する医療費をいかに抑制していくかでした。そのために治療重視から予防重視に転換していくこととし、健康保険の財政基盤を安定させるために運営主体を都道府県単位に再編することとなりました。そして、75歳以上の高齢者については独立した新しい医療保険制度を作ることが決まりましたが、その目的は「高齢者と現役世代の負担を明確に分け、世代間の負担の不公平感を是正する」ことにありました。

 私も早い段階からこの医療制度改革の中味については知っていました。小さな私的勉強会で厚生労働省の幹部から全容を聞いていましたが、その時には「75歳以上の新しい保険制度」について、特にヒドイ制度だとは思いませんでした。その場には医療福祉関係者やマスコミの錚々たるメンバーがいましたが、誰も問題視しませんでした。それはその幹部の説明の仕方が“うまかった”のかもしれませんが・・・。

 彼はあくまで医療制度全体の改革をパッケージとして説明していました。そして、国民皆保険制度を守ることに力点が置かれていました。今のまま医療費が増大していけば制度全体が破綻するので、特に医療費のかかる75歳以上の高齢者を切り分けてそこに公費を重点的に投入して救うということを強調していました。同時に入院・外来中心の医療を在宅医療重視に転換するために診療報酬を変えるとしていました。そのため、私は高齢者を救うための改革と受け止めていたのです。おそらくその場にいた他の専門家もそう思っていたに違いありません。

 今は75歳以上を「後期高齢者」と呼ぶことに対する反発も強いのですが、65歳〜74歳を前期高齢者と呼ぶことと含めて、専門家の間では一般化していた表現でした。マスコミ関係者も自然に聞き流していました。今は「後期高齢者医療制度」という文字が連日、紙面を賑わせることとなっています。しかし、その当時の新聞記事を見ると、あえて「後期高齢者」という表現を使っていません。厚生労働省の資料には「後期高齢者」と書いてあるのですが、新聞社が「75歳以上の新たな医療保険制度」と分かりやすい表現に変えていたのです。

 分かりやすく言い換えるというのは、特別な意図があったわけではありません。新聞社としては読者への配慮だったのでしょう。まさか「後期」という表現が75歳以上の老人の気持ちを傷つけるなどとは想像もしていなかったに違いありません。その結果、施行される段階になって、ほとんどの国民はいきなり「後期高齢者」という表現を知ることとなったのです。「後期」という言い方が「姥捨て山」「老人は死ねと言うのか?」などという感情論に火をつけることになったのですから、皮肉なことです。

 また、当時の新聞記事のどこを見ても年金天引きについては触れられていません。おそらく介護保険が年金天引きでしたから、新聞記者も自然なことと受け止めたのでしょう。当時はまだ宙に浮いた年金記録問題が明らかになっていませんでしたから、年金に対する国民の意識が今とは全く異なっていたようです。むしろ、煩わしい手続きが省かれて、高齢者にとっては便利な方法だとくらいに思われていたのではなかったでしょうか。

 新しい保険証が届かない人がたくさん出たことも怒りに火をつけました。宙に浮いた年金記録問題のイメージとだぶり、やっぱり厚生労働省はまたデタラメをやっているのか!という不信感につながったのではないでしょうか?

 今や野党が政府・与党を攻める恰好の政局がらみのネタとなってしまいましたから、もはや後戻りはできません。それにしても、政府にとっては国民への説明がいかに大事か、いったんその時期を逸すると取り返すことのできない重大事になってしまうものなのか・・・。改めて思い知らされた一件となったようです。

 私はマスコミの一員として、野党と同じ土俵に乗って政府攻撃をする前に、自らの過去についても反省することがなければ、国民から同じ不信の眼で見られてしまうことになるのではないかと強く思う次第です。「自分のことは棚に上げて」というのがマスコミの常套手段だと、すでに国民の多くから思われているに違いありませんから・・・。

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