「看護の見える化」。聞きなれない言葉ですが、これは国際医療福祉大学大学院で学んでいる早野真佐子さんの修士論文のテーマです。看護師は実際にどのような仕事をしているのか、看護とはどのような現場なのか、それがどうすれば一般の人に分かってもらえるのか?それが彼女の問題意識です。私の授業を受講されていた関係で、修士論文に少しだけですが、お付き合いすることになりました。
早野さんは大学院の学生とはいえ、すでに数々の看護関係の本の翻訳なども手がけてこられたその道のベテランです。アメリカ生活が長く、アメリカの看護事情にも精通されています。ご主人の介護を続けながら、さらに学ぼうとするその精神には頭が下がります。こういう人が学生として客員教授たる私の前に出てくるわけですから、たいへんです。ほんとうはどちらが先生だか分かりません。
彼女は私がプロデュース・キャスターを務めた「感動の看護師最前線シリーズ」全17回分をすべて見た上で、私にインタビューを申し込んでこられました。普段はインタビューする側の私がされる側に回ったのですが、私にとっても貴重な体験でした。
以前、私がしばしばインタビューをしていたある政治評論家がいましたが、彼が面白いことを言ったことがありました。「黒岩さんにインタビューされることで、私も自分の頭の中を整理することができるんです」その時はピンときませんでしたが、早野さんにインタビューされてみて、私も同じ思いを持つことができました。
私が何故ナースのドキュメンタリー番組を作り続けたのか?自分が目指していたものはなんだったのか?それが彼女のインタビューによってはっきりと自覚することができたのです。つまり、私は「看護の見える化」に挑戦し続けていたのです。
彼女もインタビューをまとめた原稿の中で番組のことを次のように紹介してくれていました。「准看問題からハイテクを駆使する現代看護師の仕事の現実まで、看護師の仕事の真髄とそれを取り巻く問題を一般視聴者に次々と見せていったーまさに本書のテーマである『看護の見える化』の先駆と言える番組だ」
「見える化」という表現自体がとてもユニークですが、それはまさに私の仕事の本質を射抜いた言葉でした。92年当時、ナースの人手不足が社会問題化し、ナースは3K職場だというマイナスイメージがさかんに喧伝されていました。そんな中でナースのイメージの復権こそがナース不足を解決する鍵になるだろうということで、制作を始めたのがこの番組でした。
そのためにまず必要だったのは私自身がナースの仕事そのものを正しく理解することでした。ナースのイメージの復権を目指すとは言いながら、やみくもに美化するのは邪道です。ナースたちは要するにどんな仕事をしているのかを患者の視線でしっかりと把握した上で、その素晴らしさを多くの人に伝えようと考えたのです。
しかし、意外にもこの仕事は想像以上に難しいものでした。実際の看護現場の最前線でカメラを回し続けても、なかなか看護の素晴らしさを記録することができないのです。声かけをしている、点滴をしている、体温を測っている、食事や入浴の介助をしている、ナースコールに応えている・・・。ナースの行動の一部始終をVTRに記録すること自体は簡単なことです。
もし、その表面的な行動のひとつひとつが看護だとするならば、それはうるわしい光景ではありますが、国家資格がなくてもできるものではないかなと思わざるをえませんでした。何ゆえにナースは国家資格なのか?私が見つけようとしたのは、ナースの“国家資格としての意味”でした。国家資格だからどんな風に違いがあるのか、私はそれを映像化する必要性を感じていました。ナースがあまりにも簡単に辞めてしまう現状を見ていて、国家資格の意味を彼女たち自らが理解しているのかどうか、医師や患者も意識しているかどうか、疑問に思ったからでした。
私がそういう発想を持ったのは、准看護師問題から看護の世界に目を向けるようになったからでしょう。どうしてナースには看護師と准看護師のふたつの資格があるのか?看護界が半世紀以上に抱えてきた課題に患者の視点で切り込もうと思ったのが、私のスタートでした。准看護師は国家資格ではありませんが、看護師と同じ仕事ができるということ自体、私には理解不能でした。国家資格とはそんなにいい加減なものなんでしょうか?そもそも看護の重要な担い手である准看護師には国家資格を与えないという国の方策は、看護そのものを軽視しているからではなかったのでしょうか。
准看護師が必要だと主張する日本医師会の医師たちは私に言いました。「看護婦は可愛くて優しいのがいいだろう。あんまり高い教育を受けると、生意気になって理屈っぽくなるだけで、碌なことはない。看護は理屈じゃなくて、気持ち、優しさが大事なんだから」ナースには大学教育や国家資格は必要ないと言わんばかりの言い方でした。教育レベルが高くなると優しくなくなるというのも滅茶苦茶な議論です。そこにはナースそのものを専門職として見る目は全く感じられません。ナースは所詮、医者のお手伝いさんでいいという発想です。女性蔑視の思想さえ感じられます。
もちろん私たち患者が可愛くて優しいナースを拒否する理由はどこにもありません。ただ、ナースはそれだけでいいものなのでしょうか?それなら国家資格などはいらないでしょう。しかし、可愛い笑顔でいつも優しい言葉をかけてはくれるけれど、患者に起きた重大な変化を見落としてしまった、医師の指示を忘れてしまった、そんなことの連続で、万が一患者の身に取り返しのつかないことにでもなったとしたら、それはナースとしては失格と言わざるをえないでしょう。
それならば、ナース自らが訴える看護の専門性、国家資格の意味とはなんなのでしょうか?看護学を語ったり、論じたりすることはできるでしょう。しかし、私たちがやろうとしていたのは看護そのものの映像化です。可愛いくて優しいナースは簡単に記録できますが、ヘタをするとそれだけで十分だというイメージにもなってしまいます。日本医師会の医師たちの暴論を証明する結果にもなりかねません。
つまり、自分たちで取材してみて初めて気がついたのは、看護とは基本的には見えにくいものだということです。一見、見えやすそうに見えて、実は表面だけしか切り取れない危うさがつきまとうものだったのです。私たちは映像から看護を読み解こうと必死でした。
そんな中、私はある一瞬、看護を映像の中で発見したような気がしました。
それはホスピス病棟にカメラが入っていたときのことです。80歳を過ぎた末期がんの患者がベッドの上でナースに聖書を読んでもらっていました。この人はクリスチャンで、満ち足りた表情で耳を傾けていました。すると、ある一瞬、その老人の目からひとすじの涙が流れたのです。彼はふりしぼるような声で「ありがとさん」と言いました。その二人の間は神々しいばかりの温かい雰囲気に包まれていました。「これが看護だ」と私には直感的に思えました。この3日後に老人は亡くなりましたが、安らかな最期だったと言います。
看護はナースの動きだけを見ていてもなかなか見えては来ません。それよりもむしろ、患者の表情が看護そのものを雄弁に物語っていることがあるようです。厳しい状況の中でふと見せる患者の安らぎの表情や柔らかな笑顔、それはスペシャリストとしての看護だからこそたどり着いたひとつのカタチでしょう。それこそ、「看護が見える化」した瞬間だと私は思うのです。
早野さんの論文がどんな形で仕上がるか、私も楽しみです。早野さんにとって、「看護の見える化」が最終的にどんな結論になったのか、私もたいへん興味があります。看護の現場でも「看護の見える化」ということを意識し始めると、ナースたちの仕事の向き合い方そのものも変わってくるかもしれません。