第29回 黒岩裕治の頼むぞ!ナース

第29回 〜終末期医療のリスク〜

 みなさんはテレビのニュースで殺人事件の犯人が連行される映像を毎日のようにご覧になっているでしょう。その時、みなさんはどんな思いでその犯人を見ているでしょうか?大切な人の命を奪うなどという残酷な人間は、どんな顔をしているのか、まるで鬼か、悪魔を見るような目でご覧になっているでしょう。その時、自分自身がその犯人の立場になることなど、全く想定していないはずです。しかし、怖いことを言うようですが、ナースという仕事はある日突然、殺人者として断罪される危険性をはらんでいるということを忘れるべきではありません。

 かつて、手術室に患者を送り込む際に患者を取り違えた事件がありました。薬剤と間違えて消毒液を点滴した事件もありました。本来胃に入っているチューブに注入すべき牛乳を点滴ルートから入れてしまい患者が死亡する事故もありました。いずれも信じられないミスによる医療過誤事件としてナースは断罪されました。患者が死亡した場合はメディアでの扱いは殺人犯です。

 しかし、その中に患者を殺してやろうという明確な殺意をもっていたナースが一人でもいたでしょうか?重大な交通事故を起こして、歩行者を死なせてしまった場合も同じことです。殺意があろうがなかろうが、人を死なせてしまったという事実が絶対なのです。もちろん量刑の軽重はあるでしょうが、殺人罪に問われれば殺人犯なのです。

 私は先日、かつて殺人罪に問われた女性医師にインタビューする機会をえました。終末期医療のあり方に一石を投じた川崎協同病院事件で殺人罪に問われた須田セツ子被告です。平成10年、喘息の重症発作で入院していた男性患者の気管チューブを抜いた上、筋弛緩剤を投与して死なせたとして、彼女は殺人容疑で逮捕されました。美人医師による密室殺人ということで、連日メディアを賑わせました。平成19年2月の東京高裁は、彼女に懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決を言い渡しました。一審より軽くはなったとはいえ、殺人罪が認定されたことに変わりはありませんでした。

 有名な事件でしたから、私も当時のニュース映像を記憶していました。逮捕される前からテレビカメラに追いかけ回され、無理やりマイクを向けられていました。それは医療現場で起きたことだからという特別に配慮するなどということは全くありません。通常の殺人事件の容疑者への取材と変わることはありませんでした。

 メディアというものはそういうものだと言ってしまえばそれまでのことですが、はたしてそれで問題なしと言えるのでしょうか?警察が逮捕しているのだから悪い奴に違いないと、なんの疑いもなく、報道するのは本当の意味で正しい報道と言えるのでしょうか?メディアの最前線にいる私にとって、今回実現した須田被告へのインタビューはいろいろ考えさせられるきっかけとなりました。

 終末期の患者に筋弛緩剤を使用したことが須田被告が殺人罪に問われた最大のポイントですが、どうしてそのような薬剤を使用したのか、当日の流れを振り返ってみましょう。

 心肺停止状態で病院に運びこまれた患者は蘇生には成功したものの、深い昏睡状態が続き、須田被告は回復の見込みがないと判断しました。そこで家族の了解を得て、気管に入った管を抜くことにしました。家族の見守る中、須田医師は管を抜きました。すると、患者は突然、えびぞりになって苦しみ始めたのです。これは須田医師にとっては想定外のことでした。「家族が10人以上見守る中でのことでしたから、みなさんにつらい思いをさせてしまったことはほんとうに申し訳ないと思います。」

 そこで、苦しみを除去しようとして鎮静剤を使いましたが、うまく効きませんでした。同僚の医師に相談したところ、勧められたのが筋弛緩剤のミオブロックでした。ただ、この時、その医師は「再び挿管をするものとばかり思っていた」と証言しています。しかし、須田被告は再挿菅を考えていませんでした。あくまで苦しみを除去するために、筋弛緩剤を投与したのです。

 つまり、一瞬に生じた誤解が筋弛緩剤投与につながってしまったのです。結局、患者はそのまま死に至りましたが、須田被告には間違った処置をしたという思いは全くありませんでした。カルテになに隠すわけでもなく、堂々と筋弛緩剤使用と明記していました。ところが、この記録が後々、須田被告にとっては致命傷になってしまったのです。

 高裁判決はこのあたりの事情には理解を示しています。「患者の苦悶呼吸がどのような手段をとっても止まらず、被告人としては追いつめられた状況において、同僚からミオブロック投与を助言されたことで本件投与に及んだという経緯をみれば、被告人は心ならずもミオブロック投与に及んでしまったものとみることができる。」このように理解を示してはいても、判決そのものはやはり殺人罪なのです。

 この事件はおきた当初は院内でも大きな問題にはなりませんでした。遺族側も問題視はしていませんでした。しかし、後に須田被告とことごとく対立していた麻酔科医がこの一件を遡って独自に調査し、カルテに「筋弛緩剤投与」の文字を見つけたことから、事態は大きく変わっていきました。彼は「殺人事件だ」と主張し、須田被告を辞めさせなければ、カルテのコピーをばらまくと院長に迫るなどしました。やがて事態はメディアの知るところともなり、須田被告は殺人罪で逮捕されることになったのです。患者が死亡してから4年の歳月が流れていました。

 話を直接聞いてみて、確かに須田医師には脇の甘さがあったと言わざるをえないという気がしました。家族に対して「9割9分脳死状態です」と言ったと言いますが、脳死判定もしていない状況で、そういう言い方をするのは軽率のそしりを免れないでしょう。

 しかも私たちの事前取材に対しても、「救急でいらっしゃった時にはすでに死んでおられたわけです」という言葉を平気で口にしていました。おそらく蘇生はできたけれど「すでに死んでいる」というのが、彼女の基本的な認識だったのでしょう。厳密さを求められる死の判定において、少しアバウトすぎる危なさが見えたような気がしました。

 しかし、彼女に殺意があったわけではないということだけは確かでしょう。殺意がなくても死なせたら殺人罪ということになることもあるのでしょうが、ギリギリの終末期医療の最前線での微妙な処置に殺人罪という言葉はふさわしくないと思わざるをえませんでした。

 管につなぎっぱなしにしておけば、殺人罪に問われることはありえません。患者やその家族の気持ちに思いを致すことなどしなければ、機械的にそうしておけばいいのです。しかし、そういう状態が長期化することでの家族への負担、患者本人がそれで幸せなのかなど、あれこれと心を配り始めると、最期をどうしていくかという課題は出てきます。

 まともに家族の苦悩に向き合おうとする医療者ほど、殺人罪に問われる可能性が高くなるというのは、釈然としません。現に、危ないことはできるだけ避けようとする風潮が医療現場に拡がりつつあるようです。それは医療の自滅です。終末期でなくとも、医療には常にリスクが伴います。それをある程度、許容することがなければ、医療は成立しません。

 医療者に刑事責任を負わせることに対してもっともっと慎重であるべきではないでしょうか?明確な殺意や悪意が証明されないかぎり、刑事責任は問うべきではないと思います。もしかしたら逮捕されるかもしれないなどという恐怖と闘いながら、治療にあたるというのは正常な医療のあり方とは思えません。ただし、そのためには絶対的な条件が必要です。

 それは医療現場の透明性を徹底的に進めていくことです。誰もが検証可能な医療を確立することがなければ、刑事責任が問われないことをいいことに、杜撰な医療が横行することにもなりかねません。大切なことは医療者と患者側のコミュニケーションです。医療者が患者に医療を行なうのではなく、両者が協同して医療を作り上げていくことが必要なのではないでしょうか?リスクについて共通の認識を持つことができていれば、極端な話として、たとえミスがあったとしても、患者側も納得できるような医療が実現できるのではないかと思うのです。

 須田被告は今、地元で開業していますが、「優しいいい先生」として評判となっています。殺人医師の汚名をかけられても、患者が選択し、殺到しているのです。そういう現状を目の当たりにすると、医療現場における“殺人”という言葉の意味について、改めて深く考えてみなければとならないと痛切に感じた次第です。


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