第20回 黒岩裕治の頼むぞ!ナース

第20回 他人のせいにしない生き方

 ある日の飛行機内での出来事です。私の席の隣に30歳半ばのビジネスマン風の男が紙コップのコーヒーを持ったまま乗り込んできました。ノーネクタイでいかにもベンチャー系、ホリエモンの親戚(?)のような男でした。そして、その紙コップを私との間の肘掛に置き、新聞を拡げて読み始めたのです。そもそもコーヒーを持ったまま乗り込んでくるなんて非常識な男です。私はこぼれやしないかと気になって仕方がありませんでしたが、そのうちに何とかするだろうと思い、見て見ぬふりをしていました。

 やがて飛行機が滑走路に向けて移動を始めました。しかし、彼は相変わらずコーヒーを置いたままで頓着する気配さえありません。いくらなんでもこのまま離陸することはないだろうと思っていましたが、飛行機はそのまま向きを変え最終離陸態勢に入ったのです。私は我慢の限界に達し、彼にコップを指差しながら「これ、気になるんだけど」と言いました。

 その瞬間でした。飛行機は離陸に向けていきなり加速しました。離陸に向けて動き出す時というのは一気に加速します。あっという間に紙コップは宙に舞い、私の右腕に茶色いコーヒーがかかったのです。上着は預けてあったため、濡れたのは私のワイシャツでしたが、見るも無残な状況となってしまいました。

 客室乗務員は上昇中にも関わらず、すっ飛んできておしぼりで拭いてくれました。コーヒーの色はそう簡単に落ちるものではありません。右腕いっぱいにくっきりと醜い染みが残ってしまいました。その男はバツが悪そうにしていましたが、きちんとしたお詫びの言葉さえ口にしません。私は怒りに震えていましたが、機内のことでもあり、じっと不快感を押さえていました。

 ところが、この男は飛行機を降りた後、謝罪するどころか、開き直ってこんなことを言い始めたのです。「僕がなんか悪いことをしましたか?悪いのは飛行機会社でしょ?誰か僕にコーヒーのことを注意しましたか?片付けるように言いましたか?客室乗務員の怠慢でしょ?だいたい僕だって被害者ですよ。見て下さい。こんなに汚れちゃったんだから。あなたも飛行機会社に文句を言えばいいでしょ?」

 世の中にはいろんな人間がいるんですね。まさかこういう発想が出てくるなんて、私には思いもよらないことでした。私は当然、激しく抗議をしましたが、全く話になりません。最後は「人間としてそういう言い方をして恥ずかしいと思え!」とだけ言い残して、私はその場を立ち去りました。

 ナースのみなさんも考えてみれば、いろんな患者さんを相手にしなければいけないからたいへんですよね。こういう人間でも病気になったり怪我をしたりすれば、当然、病院に入ってくるでしょう。私とこの男とは見ず知らずの通りがかりの関係でしたから、不快感さえ爆発させなければその場を立ち去ることで、やり過ごすことができました。しかし、患者は病院を選ぶことはできても、ナースが患者を選ぶことはできないわけですから、ナースとしては耐え忍ぶしかないんでしょうね。

 飛行機で会ったこの男は極端な例だとしても、今の世の中、何でも他人のせいにしようとする風潮ってあるんじゃないでしょうか?国が悪い、役所が悪い、政治が悪い、マスコミが悪い、上司が悪い、親が悪い、友達が悪い・・・。どんな問題を論じても、すぐに誰かのせいにしているってことはよくあることではないでしょうか。

そういう風潮の中での医療のあり方というのは、難しい問題を抱えていると思います。最近、患者が医療に納得がいかないと、すぐに訴えを起こすようになってきました。医療訴訟の件数は年々増加傾向にあり、平成8年度には全国で575件だったものが、平成16年には1110件にまでになっています。かつての医療の現場は患者から見て不透明な部分が多すぎて、たとえ医療ミスがあっても患者は泣き寝入りするしかありませんでした。それが近年になって患者中心の医療のあり方が叫ばれ、患者は自ら主張するようになってきました。最近の医療訴訟の増加はこれまでの反動という側面もあるのではないでしょうか。

 もちろん他人のせいにすることと訴訟とは別次元の話です。しかし、他人のせいにする傾向が強くなると、訴訟は自ずから増加するのではないでしょうか。アメリカは訴訟社会ですが、彼らは徹底的に他人のせいにする国民です。日本人はすぐに謝りますが、アメリカ人は滅多なことでは謝りません。謝った途端に、自分のせいになってしまうからです。日本人から見ればびっくりするような理屈をつけて、他人のせいにして、すぐに訴訟に持ち込みます。よく言われるエピソードですが、アメリカでは路上に捨ててあったバナナの皮で滑って転んで怪我をした場合、道の安全を脅かしたとして、その前の家が訴えられると言うではありませんか。

 日本もアメリカ型社会に近づいているのかもしれません。しかし、それが結果的に医療現場に悪い影響を与えてしまっているということは憂慮すべきことではないでしょうか。2004年、福島県立大野病院で帝王切開手術により29歳の女性が失血死した件では、警察が担当医を逮捕するという異例の事態となりました。専門家の間でも医療ミスと呼べるかどうかは疑問だとの声も上がる中で、あきらかな警察の先走りと言えるでしょう。それも今の世の中の風潮を反映していると見ることができるような気がします。

 この逮捕劇は日本の産科医療の崩壊につながりかねない大波紋を起こしました。多くの産科医がリスクの伴うお産に向き合うことを怖れて、辞める人が続出し、閉鎖に追い込まれる産科病棟も急増しました。現場からは産科医療は崩壊に向かって進んでいるという悲鳴の声さえ上がっています。

 外科医にも同じようなことが起きています。難しい手術なんてやってうまく行かなかったら、訴えられるかもしれない。いきなり逮捕されるかもしれない。そんなリスクの伴う仕事はしたくない。患者からはミスをするんじゃないかと疑心暗鬼で見られ、萎縮しながら仕事をするなんて、まっぴらゴメンだ。最近の新人は外科医を敬遠しがちで、皮膚科や精神科に人気が集まっていると言います。現に全国の約1割の救急病院が医師不足を理由に救急指定を返上していると言いますから、事態は深刻です。

 ナースのみなさんだって、いつ自分のせいにされて訴えられるかもしれないと思うと萎縮してしまいますよね。点滴の薬を間違えたとか、薬の量を間違えたとかという明らかなミスは絶対に困りますが、注射をして万が一のことがあったらどうしようなんて考え始めると、なるべく自分ではやらないようにと思ってしまいますよね。そもそも基本的な信頼関係があってこその医療・看護ですから、その根本が崩れると成り立たなくなってしまいます。

 考えてみれば、かつての日本はこんなにギスギスしていませんでした。「信頼」によって成りたっていた社会でしたから、安定感もあり、優しさにあふれた社会でした。日本人がすぐに「すみません」というのは、自分がまずへりくだることによって、人間関係を潤滑にするための知恵でした。絶対に「すみません」と言わないアメリカは、基本的に「信頼」が基盤になっていない国だからです。他人は敵というのが前提ですから、すべては契約で決めようとしますし、すぐに訴えて自分の正当性を担保しなければやられてしまうと考えるのです。

 ただ、世の中全体の風潮がたとえそうであったとしても、みなさんがそれに合わせる必要など全くありません。まずは自分から「他人のせいにしない」という生き方を実践するしかないと思います。ナースであるあなた自身も困った問題があった時、なにかのせいにしていませんか?

 患者さんから質問されても、よけいなことを言って自分のせいにされるより、「先生に聞いておきますね」と言っておけばなんとかなるなんて思ってませんか。自分の看護がうまくいかないのは師長さんがいけないからだとか、主任が嫌な人だからとか、患者がいけないからだとか思ってませんか?それは事実かしれません。しかし、そうやって誰かのせいにしてみたところで、何も改善はしません。

 他人のせいにするというのは楽なことです。でも、それはみっともないことでもあります。みなさんはせっかくナースという人のいのちを支える素晴らしい職業に就いているんですから、その大きな志の方を大事にして欲しいですね。そして、他人のせいにしないナースの姿をたくさんの人に見ていただくことによって、今の日本人が罹っている「他人のせいにする症候群」という病気を治して欲しいと思います。

 ナースのみなさんの労働環境や条件、仕事の中味を担当しているのが、まさに厚生労働大臣です。医療費削減や賃金カットにだけ関心があるような大臣でいいのでしょうか?ただでさえ、医療費削減の大きな目標の下で、ベッド数は減らされ、スタッフの数も減らされ、さまざまな制限が加えられようとして、悲鳴を上げているのが今の医療現場です。そういった生の声に耳を傾けずして、経済の専門家として施策をドンドン講じられていったら、たまらないと思いませんか?

 そうしたら、またこんな発言が飛び出してきました。「若い人は『結婚したい。子どもを2人以上持ちたい』というきわめて健全な状況にある」。子供を二人持つことが「健全」な発想なのか?それじゃ子供一人でいいと思う人は「健全」ではないということか?ましてや子供はいらないと思っている人は、「不健全」ということなのか・・・。

 子供が欲しくて欲しくてどうしようもないのに、なかなか子宝に恵まれずに悩んでいる女性も大勢います。私の友人の中にもそういう女性がいて、子供を見るだけで涙が出てくると言われたこともありました。そんな女性たちの心をどれだけ傷つける無神経な発言なんでしょうか?

 少し考えれば子供でもおかしいと思うような不適切な言葉がなぜか次から次へと出てきます。当然のごとく、国会でも徹底的に追及されました。すると、今度はこんな弁明をしました。「私は国語力は十分ではないので、またなにか言うと波紋を呼ぶ・・・」。

 私は基本的にはマスコミお得意の「揚げ足取り」は好きではありません。できるだけそういうことはしないでおこうといつも番組のスタッフとも話しています。しかし、柳沢大臣の発言の抱える問題というのは、より深刻であり、重大だと思わざるをえないのです。その象徴がこの発言です。

 教育再生を掲げる安倍内閣の重要閣僚が、国語力が十分でなくてもいいんでしょうか?教育の基本中の基本は読み書きそろばんです。国語力をつけさせることは教育再生の最も大事なことの一つです。それにも関わらず、自分は国語力が不足していると開き直る大臣はなんなのでしょうか?そもそも国語力というものを彼はどういう風に認識しているのでしょうか?国語力とはただ単なる言葉選びの問題だと思っているのではないでしょうか?

 政治家に求められるのは、コミュニケーション能力です。国民に向かって、政策を分かりやすく的確に説明し、その責任を負うというのが政治家の仕事です。自分は政策の中身についてはちゃんと分かっていて、きちんと判断する能力はあるんだけど、それをうまく表現できないんだと言いたいのかもしれませんが、それでは大臣失格です。

 問題発言は留まるところを知りません。今度は政策の中身に対する認識の甘さが専門家の逆鱗に触れてしまいました。「産婦人科医が減っているのは出生数の減少で医療ニーズが低減していることを反映している」と国会で答弁したのです。これでは産科医が減るのは少子化なんだから当然のことであって、何も問題ではないということになってしまいます。それなら今、各地で大問題になっていて、メディアもさまざまなカタチで取り上げている産科の危機というのは、間違いだと言うのでしょうか?産科医たちは激怒しています。

 確かに産婦人科医一人あたりの出生数は90年が95人、04年が98人ですから、極端に増えているわけではありません。そのことを見て、問題なしというのであれば、まさに「経済問題を考えてる」大臣の真骨頂と言えるでしょう。まさに数字だけ見て、現実を見ていないことを象徴的に示しているようです。

 訴訟を恐れたり、過酷な労働を嫌う産科医たちがどんどん病院を離れ、産科病棟の閉鎖が相次ぎ、残った産科医たちの労働条件がさらに悪化し・・・という悪循環に陥っているのが今の産科医の現状です。卒後臨床研修の義務化に伴い、研修医はいろいろな科を廻っていくようになりました。その結果、より楽でリスクの少ない科を選びがちになってきたようです。産科医の現状を生々しく見ることで、こういう仕事はやりたくないと思ってしまう研修医が多く、なり手がさらに減少していると言うのです。

 卒後臨床研修制度自体はそれまではあいまいな存在であった研修医の身分を保証し、医局支配を打破する前向きの改革でした。かつては研修医は医局の中に強引に組み込まれていっていましたから、科による偏在はあまりありませんでした。ところが、この改革によって研修医たちに自己決定権が与えられたことにより、こういった思いもよらなかった弊害も出ているのです。

 そんな状況の中で、なんとかして産科医療を支えなければならないと粉骨細心、がんばっている産科医たちがこの大臣発言に激怒したのは当然のことです。これは単なる言い間違いでもなければ、国語力の問題でもありません。医療の現状を知らないのです。医療の数字にはご関心がおありのようですが、いのちが今、どんな状況に置かれているかの現実には興味がないのではないでしょうか?

 柳沢大臣はある面では東京大学を優秀な成績で卒業したと言いますから、お勉強はとってもできたことは間違いありません。しかし、勉強ができるというのと仕事ができるというのは全くリンクしないものです。かつての金融大臣の頃はそれなりの存在感を示した柳沢大臣ですが、どう考えてみても厚生労働大臣という職は向いていないと思わざるをえません。

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