毎年恒例となっていたHAS看護学生弁論大会がついにその幕を閉じることになりました。これは看護学生による自主的な手作りの弁論大会で、94年に始まって以来、13年の長きにわたって継続してきました。私は大会の立ち上げからずっとサポートしてきただけに残念でなりません。
そもそも学生さん主体の会ですから、私などが前面に出て旗振りをすべきものでもありません。最後の実行委員会のメンバーも継続を前提に活動してきたのですが、最終的には肝心の弁論の応募がほとんどなく、休止せざるをえなくなってしまったのです。これも時代の流れというものなのでしょう。仕方ありません。
聖路加国際病院理事長の日野原重明先生と私がレギュラー審査員を務めてきました。それ以外に毎年、多彩な顔ぶれがゲスト審査員として参加してくれました。ナースで作家の宮子あずささん、故逸見政孝夫人の逸見正恵さん、日本赤十字看護大学教授の川嶋みどりさん、聖路加看護大学学長の井部俊子さんなど、看護学生の自主的大会とは思えないような豪華な顔ぶれでした。
最初は聖路加看護大学の学生さんが実行委員会を務めていましたが、だんだん他の看護大学や看護学校の学生も参加するようになりました。看護学生が他校の学生と連携してひとつのものを作り上げるという経験はほとんどないでしょう。それだけに実行委員会のメンバーにとって苦労は多かったでしょうが、やりがいのあるプロジェクトになっていました。
全国から参加者を募って実施していましたから、それなりの資金が必要でした。それも実行委員会のメンバーが協賛企業をひとつひとつ廻って行って、企画書を説明しながら依頼をして資金を集めていました。看護学生にとっては企業に出かけて行くという行為そのものが素晴らしい勉強の場でした。ほとんどの看護学生はそんな経験をしたことがないままに、ナースとなって職場に出ていくでしょう。ほんのわずかでも他の世界を見て、体験したということは、看護の実践をしていく中で大きなチカラになっていくことは間違いありません。
集めた資金は代々、引き継がれてきました。今度、大会の中止を決定した時点で、100万円もの運営費が残っていたと言いますから、たいしたものです。私は最後の実行委員会のメンバーに、たとえ大会は開催できなくてもその資金はどこかに寄付するなど、みんなに見えるカタチで、協賛して下さった企業も納得するように使わなければ絶対にダメだとだけ言明しておきました。
振り返ってみると私自身にもさまざまな思い出があります。最初は私のフジテレビのデスクにかかってきた一本の電話から始まりました。電話の主は当時、聖路加看護大学の学生だった我妻有里子さんでした。まさか私が直接電話に出るとは思わなかったようで、こちらにも緊張が伝わってくるようなか細い声でした。「看護学生で弁論大会をやりたいので、相談に乗って欲しい」というのです。
私にご指名があったのは、ドキュメンタリーシリーズ「感動の看護婦最前線」を見たことがきっかけだったようです。「今どき弁論大会とはまた時代がかったことだな」というのが最初の印象でした。しかし、電話ではあっても我妻さんの真剣な思いが伝わってきて、私はすぐにフジテレビで会う約束をしていました。
「私たちは看護学生であって、まだ看護を勉強しているだけのタマゴたちですが、今の医療の世界で看護の地位は低すぎると思うんです。看護の地位を上げることは医療の質を上げることにつながり、患者さんのためになります。そのためには看護に対してもっともっと一般のみなさんに目を向けてもらわなければなりません。そのために私たちはタマゴたちなりの思いを伝えたい、タマゴたちからの革命を目指そうと思うんです」
まさにタマゴという言葉がぴったりな可愛いお嬢様たちでしたが、言っている中味は私の胸にもズシンと響くものでした。私自身も3K職場と言われたナースの職業イメージを一新したいと思って番組作りをしていましたから、彼女たちはまさに私の同志でもありました。たまたまその直前に早稲田大学の広告研究会主催のエイズに関するトークショーに呼ばれた経験などを話しながら、私なりにアドバイスをしました。
大会の形式はどうするか、どういうテーマにするか、協賛金の集め方、メディアへの取材依頼の方法、告知の仕方、集客の仕方、当日のゲスト対応、さらには大会終了後の懇親会のことまで、思いつくままに話しました。まさか弁論大会を実現するために、そんなにいろいろなことまでやらなければいけないのか、彼女たちの唖然とした表情が今も忘れられません。
我妻さんの強力なリーダーシップのチカラもあって、記念すべき第一回目の弁論大会は大成功を収めました。マスコミにも大きく取り上げられ、会場は立ち見が出るほどの大盛況でした。当日、会場に行ってみると、実行委員会のメンバー全員が分厚い大会運営マニュアルを手にしながら、手際よく作業を分担していました。どうしてそんなマニュアルが作れたのかを聞いたところ、早稲田広告研究会のメンバーに相談に行ってきめ細かく指導してもらったのだと言うのです。私はそのフットワークのよさと熱意に感心していました。
その第一回大会の成功を受けて、この大会は次の学年の学生たちに吹き継がれていくことになりました。看護学生は病院実習などがあって普通の大学生に比べてはるかに忙しいようでしたが、みんな熱心に取り組んでいました。そして、毎回、新しい実行委員会のメンバーが決まると私の元へやってきて、相談をするというのが恒例となっていました。
新しいメンバーは必ず、自分たちならではのオリジナリティを出したいと必死でした。同じ弁論大会であっても何かこれまでと違うことをやりたいと知恵を絞るのです。第一部は弁論大会で第二部は弁論者同士の討論にしたり、審査員と実行委員会のメンバーによるシンポジウムを行なったり、実行委員会のメンバーが会場の観客全員を対象としたクイズ大会をしたりと、いろいろな挑戦をしました。
一番たいへんだったのはテーマを決める作業でした。実行委員会のメンバーで素案を持ってくるのですが、たいがい私のNGによって検討し直しになりました。学生がやりたいテーマでやればいいじゃないかと思われるでしょう。それはそのとおりで本来私が介入すべき問題ではないのですが、私が指摘したのは表現の問題でした。
弁論大会の趣旨が一般の人に訴えたいというところにありましたから、テーマもわかりやすい表現でなければなりません。新聞に大会の告知記事が出ていて、看護界とは関係ない人でも行ってみたいと思わせるものでなければなりません。彼らの素案はいつも素人には難解なものでした。授業の中で出てくる言葉をそのままタイトルに使おうとする傾向が強かったのです。「その表現で一般の人が行ってみたいと思う?」と私が問いかけると、沈黙してしまうのが常でした。
そこから私は次々と問いかけていきます。「要するにどんな問題意識で、何について論じて欲しいと思ってるの?」すると、彼らは私が驚くほど、明確に自分たちの考えを述べるのです。みんな優秀な学生たちで、私の元に来るまで、委員会のメンバー同士でつっこんだ議論をしていたことが伝わってきます。私にとっては今の看護学生たちが何を考えているのかを知る絶好の機会でした。
ただ、「その問題意識はよくわかるけれど、そのタイトルでその思いが一般の人に伝わると思う?」と私がたたみかけると、また彼らは困惑の表情に変わってしまうのです。そして、もう一度、持ち帰って改めてタイトル案を練り直して、出直してくることになるのです。この作業を2度ならず、3度、4度とやった時もありました。
私がこの過程を通じて看護学生たちに繰り返し語ったのは、「あなたたちが将来、ナースとして相手にするのは一般の人でしょう。その人たちにわかる表現で専門的なことを伝えるというのがナースの仕事ではないですか?」。看護学生は早い段階から、看護を目指す人たちばかりの世界に入り、看護の専門家に教育を受けます。その結果、専門家同士で分かる言葉で語り合う癖がついてしまうようです。
自分たちの世界の狭さを自ら知り、限界を打ち破ろうと苦闘する彼らは間違いなく、素晴らしいナースに向かって成長を続けていると私はいつも実感していました。継続したからこそ、先輩たちも毎回、応援に来てくれました。大学生だった女性が結婚をし、子供を連れてやってくるのもうれしいことでした。継続断念に追い込まれた最後の実行委員会の面倒をみていたのが、聖路加看護大学の先生となっていた我妻さん(高畠さんと名前が変わっていましたが)だったことは運命的なものさえ感じます。
計13回の大会に関わったタマゴたちは今、現実の看護の実践の中で、さまざまな思いを抱いているに違いありません。理想と現実のギャップに悩んでいることもあるでしょう。しかし、大会のことはきっと青春の素晴らしい思い出の1ページとして、心の中に大切にしまってくれているはずです。その思い出が悩んだり苦しんだりしている時に、自らを鼓舞するチカラになっているとしたなら、こんなにうれしいことはありません。
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