みなさんは看護の現場にいて、日常的に患者さんからいろんな質問をされるでしょう。そのひとつひとつにどんな風に答えておられるのか、私にはたいへん興味があります。看護にとって最も重要なのは言葉ではないでしょうか。少なくとも患者の立場からすれば、言葉が看護のすべてと言っても決して言いすぎではないと思います。
私はキャスターという職業ですから、言葉を生業にしています。日本で、世界で起きている出来事を皆さんに伝えたり、解説したりする時、どんな言葉を使うか。それがキャスターにとって最大の課題です。
私の担当している「報道2001」では、毎週毎週、最もホットなテーマで、最もホットなゲストから話を聞きたいということで、15年間の歴史を積み重ねてきました。政治・経済・外交の最前線で現在進行中の課題を議論しますから、どうしても難しい話になってしまいがちです。しかし、私の基本はこの難しい議論をテレビの前にいる中学生にどうやって分かってもらえるかという点にあります。それがキャスターという仕事だと私は思っています。
専門家同士で議論するのは簡単なことです。しかし、それをそのまま放送しても、見ている方はほとんどついていけないでしょう。まず、専門用語の難解さをどう噛み砕き、分かりやすくするかが重要です。言葉が分からなければ、議論の中身に耳を傾けることなどできるはずもありません。
それはそのまま看護の世界にも当てはまるでしょう。みなさんが看護学校で学んだ時は、看護の専門用語の世界にズッポリと浸かっていたはずです。その言葉を使うことに何の違和感も感じていなかったでしょう。しかし、それをそのまま看護の現場で使っても、患者さんにはチンプンカンプンです。QOLなんて言葉ですら、患者さんには伝わらない言葉だと思った方がいいでしょう。少なくとも私がその言葉を番組で使うことは絶対にありません。だって中学生には分からないだろうと思うからです。
言葉には魔力が潜んでいると私は思っています。専門用語だけを使って議論していると、いつの間にか、自分自身で分かったような錯覚に陥ってしまうものです。そんな時、いきなり素人から素朴な質問を投げかけられて、わけがわからなくなってしまうことは往々にしてあることです。それは要するに自分自身がほんとうはあまりよく分かっていなかった証拠です。
私はこれまで何度も看護について語るシンポジウムに出席したことがあります。そこでは著名な看護大学教授や日本看護協会の幹部などという人と一緒に討論することになります。残念ながら、看護教育の第一線にいる人たちの言葉の貧しさを痛感した経験が何度かあります。私が討論に参加しているということからして、患者さんとの関係や、社会との向き合い方などが議論の対象になっているのは明らかです。しかし、わざと難解な言葉を駆使して、いかにも自分が専門家であるかを誇示するような話し方をする人がいるのです。
公開の討論の場ですから、私はそういう人にはわざと素人的に素朴な質問を投げかけるようにしています。実はその答え方でその人物の看護レベルがわかってしまうんですね。だって、看護の現場はすべて素人からの素朴な質問に答えることから始まるのではないですか。私の質問に的確に答えられないで、シドロモドロならまだ許せるのですが、そういう人に限ってプライドだけは人一倍あるからやっかいなのです。かつていた協会の幹部などは、「あら、黒岩さんともあろうお方がそんなことも分かってらっしゃらないの?」と、公衆の面前で私を見下すことで、その場を切り抜けようとしました。
某国立大学の教授だとして、ずいぶんとオエライ感じの人もいましたが、彼女も見事なほど私の質問にはいっさい答えられませんでした。「ま、そういうことよりですね」とすべての話を自分が用意した話に戻してしまうのです。そして、いちいち自分が事前に用意したスライドを出せと指示し、最前列の人が双眼鏡を持ってしても読めないような文字や図表を持ち出して、質問とは全く関係ない自分の話を展開するのです。自己満足もいいところです。当然のごとく、その時は討論そのものが全く成り立ちませんでした。
看護の基本は人の話を聞くことでしょう。それが全くできない人が看護教育の大御所として君臨しているなんて、とんでもないことですね。看護学生だけを相手に同じ講義を繰り返していればなんとかなるという大学の甘い体質が、そういう存在を作ってしまうのでしょうね。
学問としての看護学は大事でしょうが、看護学を極めた人が素晴らしい看護ができるというわけではないでしょう。最近、看護大学が増えて、大学卒のナースもずいぶんと増えました。それは看護界にとって間違いなく素晴らしいことです。ただし、その人たちが現場を軽く見る傾向があるとしたら、大問題です。現場重視でない大卒ナースがどんなに増えても、患者にとっては全くありがたい話ではありません。看護学の専門家が大量に増えるよりも、現場重視の看護の専門家が増えてくれることの方がよほど大事なことだと私は思っています。
さて、素人である患者さんが投げかけてくる素朴で率直な質問にいかに答えるべきか。それは私が手がけているミュージカル「葉っぱのフレディ」の重要なテーマとなっています。聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が原案を作り、私がプロデューサーを務めています。アメリカの哲学者レオ・バスカーリアが書いた絵本を翻訳した作品で、日本では105万部の大ベストセラーとなっています。それを日野原先生とともに2000年にミュージカル化し、毎年のように公演を続けてきました。今年も8月に全国公演を予定しています。
そのクライマックスシーンでフレディが問いかける一つの質問。「春に生まれて冬に死んじゃうんだったら、僕はどうして生まれてきたの?」木枯らしが吹き始め、これから引越しをしなければいけないと言われたフレディが、「引っ越すなんて言ってるけど、死ぬことでしょ。僕、死ぬの怖いよ」と涙を流した後に、ポツリともらす一言です。
「どうして生まれてきたのか」というのは実に哲学的な問いかけです。人間存在の根源を問う、重い重い質問です。実は、このような質問を看護の現場で患者さんから投げかけられることって皆さんの経験の中にもあるんじゃないでしょうか?末期ガンで治らないと分かっている患者さんに、副作用の強い抗がん剤を投与している時、「私はもう治らないんでしょう?だったら、どうしてこんなつらい治療に耐えなければならないんですか?」そう迫られて、なんと答えていいか、頭が真っ白になったっていうのはよく聞く話です。
「そんな弱気にならずに、がんばりましょうよ」と言うのは最も安易な逃げの常套手段です。すでにがんばりの限界に来ている患者にとっては残酷な響きしか残らないでしょう。とはいえ、それ以外の答え方を探すのは容易なことではありません。若き日野原先生も同じだったと言います。日野原先生がかつて死を目前にした少女に「がんばれ」としか言えなかった自分に対する苦い思い出が、彼を生涯、終末期医療に向かわせ、いのちに向き合う全人的医療の実践にあたらせるきっかけとなったそうです。
そしてその思いがこのミュージカルにもつながったのです。日野原先生自身を投影したルーク先生が舞台上で、その日野原先生の実話を下にした話を独白するところから舞台は始まります。さて、フレディの素朴な問いかけに葉っぱたちはどんな言葉を使って、どんな表現で答えるのでしょうか?
私はプロデューサーとして何度もこのシーンを観ていますが、自分でも驚くほどに何度観ても客席で涙を流してしまうのです。もちろん答えは知っています。でも、その言葉の奥にある意味が本当に自分で分かっているのかどうかを自らに問いかけた時、いつも熱い思いが胸の底からこみ上げてくるのです。
みなさんも改めて看護の現場において自分たちがどんな言葉を使っているか、じっくり振り返ってみる機会を作ってみたらいかがでしょうか?ミュージカル「葉っぱのフレディ」はみなさんにそんなチャンスを与えてくれると思います。プロデューサーですから、ちょっと宣伝っぽくなってしまいましたが、日野原先生と私のコラボレーションによる「いのちを考える教育キャンペーン」です。現場のナースのみなさんに看護の言葉という視点で観て欲しいと強く願っている次第です。