先日、私のフジテレビの大先輩だった故逸見政孝さんの13回忌のパーティーがありました。若いナースの中には知らない人もいるかもしれません。それだけ時間が経ってしまったということなんでしょうね。逸見さんの死因はガンでした。避けられない死だったとは思います。しかし、その死に至る最後のプロセスに私は大いなる疑問を持ち続けています。今でも納得できていません。それが逸見さんにだけ起きた特別のことではなく、医療現場ではごくごく普通のことだろうと思うから余計です。医療問題に取り組む私にとって、逸見さんの死は大きな課題を投げかけてくれたのでした。
逸見さんはフジテレビでアナウンサーとして大活躍し、今の夕方のニュースの前身である「FNNスーパータイム」の初代キャスターを務めました。真面目一徹という風貌ながら、茶目っ気があり、幅広い人気を集めていました。その後、フジテレビを辞めて独立し今の、みのもんたさん並みの超売れっ子タレントとなりました。最近、復活している「平成教育委員会」も、タケシと逸見さんのコンビでスタートした番組でした。
しかし、人気絶頂の最中、ガンに侵され、壮絶な闘いの後に亡くなりました。そのときはまだ48歳の若さだったということを、今回のパーティーで聞かされました。私は今、51歳ですから、いつのまにか私の方が追い越してしまっていたわけです。パーティーで挨拶に立った安藤優子さんも「私も同じ48歳になりました。この私の歳で逸見さんが逝ってしまったのかと思うと、改めて早すぎる死だったと思わざるをえません。」と声を震わせていました。
逸見さんの「ガンと闘う宣言」は当時、大きな衝撃を持って受け止められました。彼は自ら記者会見を開き、カメラの前で「私が侵されている病気はガンです。」と明らかにしました。当時はガン告知も一般的ではありませんでしたから、自らガンを公表するというのは、たいへんに珍しいことだったのです。
その会見は生中継されていましたから、私も報道センターで画面に釘付けになっていました。そこに映し出された逸見さんは痩せ細っていて、誰の眼にも明らかな末期ガン患者の表情でした。彼は自分自身のことであるにも関わらず、喋りのプロとしてのこだわりを捨てず、務めて冷静に、客観的に語りかけていました。そして、「私はガンと闘います。」という名文句を発したのです。
会見を終えた逸見さんは挨拶のために古巣のフジテレビにも顔を出しました。なんと声をかけていいものか、戸惑いました。結局、この言葉だけは言うまいと思っていた言葉しか頭に浮かばず、「がんばって下さい。」と言ってしまいました。病気と闘っている人に向けて、「がんばれ」という言葉がいかに空疎で無神経なものであるか、私は常日頃、取材現場で痛感していました。しかし、逸見さん本人が「がんばります。」と宣言しているのだから、「がんばって下さい。」と言ってもいいのではないかと、一瞬、思ってしまったのです。自らのボキャブラリーの貧弱さに恥じ入るばかりでした。
逸見さんは会見の直後に大きな手術に臨みました。あの痩せ細った身体にメスを入れて、3キロもの臓器を摘出したのです。どうしてそんな手術をするのか、私には全く理解できませんでした。逸見さんはその手術の後、回復することなく、2ヵ月後には亡くなってしまいました。治る可能性のある手術ならまだしも、いったいなんのための手術だったのでしょうか。しかも、その執刀医がガンを切ることにかけてはゴールドハンドと言われた権威のドクターだったのです。素人でも分かりそうな「無駄で無意味で無謀な手術」を、どうしてそんな権威のドクターが行ったのでしょうか。
手術の後、フジテレビの幹部とそのドクターが会食をしました。そのとき、彼は「手術はうまくいきました。ガンは実にきれいに見事に切れましたよ。」と、にこやかに得意満面に語ったと言います。フジテレビの人たちは当然のごとく「それはよかった。」という気持ちにはなれず、複雑な思いで聞いていたそうです。
要するに、ガンを切ることに人生をかけてきたドクターはガンの患部しか見ていなかったということではないのでしょうか。確かにガンそのものはきれいに切り取ることができたにちがいありません。その技術を身につけるために、彼は並々ならぬ努力や苦労を積み重ねてきたはずです。それを乗り越えたからこそ、彼は今の地位を築き上げることができたのです。しかし、いつのまにか彼にとってはガンをきれいに切ることが最終目的になっていたのでしょう。その結果として患者さんが亡くなったとしてもそれは仕方がないことであって、逸見さんが亡くなったことについても特別の感情はなかったのではないでしょうか。
権威のドクターかもしれませんが、彼は人間にとって最も大事なことを見失っていたと言わざるをえません。そもそも医療とはなんのためにあるのでしょうか?それはいのちに向き合い、育み、守るためでしょう。病気を退治するのはいのちを守るためであって、病気を退治すること自体が目的であってはなりません。病気は退治したけれどいのちが消えてしまったというのでは本末転倒です。
私はこの一件以来、権威のドクターというものを信用することができなくなってしまいました。権威だからこそ陥ってしまうおとしあながあると思うからです。権威になれば、周りはみんなイエスマンになってしまうでしょう。彼の考えに異論をぶつけてくるドクターなどいないはずです。そういうドクターたちを排除してきたからこそ、権威になることができたのかもしれません。
そこには患者の視点というものが入り込む余地は全くありません。逸見さんの場合は自ら望んでそのドクターに身を委ねたわけですから、周りがとやかく言うべきことではないかもしれません。しかし、彼がもっとさまざまな選択肢を提示されていたら、そういう判断にはならなかったに違いないと思うだけに、悔しくてならないです。
さて、こういう権威のドクターとともに働くナースのみなさんにはいったい何ができるのでしょうか?ドクターの言うとおりにすべてを忠実に実行することしかできないと思う人がほとんどかもしれませんね。おそらく、実際の現場ではナースの立場から治療方針に異論を唱えるなど、許されるような雰囲気ではないでしょう。万が一、勇気を持って声を上げても、黙殺されるか、飛ばされるかのどちらかでしょうね。
しかし、もう一度、よく考えてみて下さい。「無駄で無意味で無謀な手術」に自ら加担することに良心の呵責を感じませんか?あなたは誰のためのナースなんでしょうか?ドクターのための存在ですか?患者のためのナースですか?患者さんのために力になりたいって思って、ナースを志したのではなかったですか?その原点にもう一度、立ち返ってみて下さい。
ナースは「いのち」を輝かせるためにがんばっているのでしょう?そしたら、どんな厳しい状況にあろうとも、いのちを輝かせるための最善の方法を考え、提示し、実践していくべきです。ほんとうに真剣にそう考えれば、やるべきことはいくらでもあるはずです。目的をしっかりと設定しさえすれば、実際にやるべきことは自ずから見えてくるに違いありません。
「いのちが輝く」ということはQOL(生活の質)をいかに高く維持できるかということです。「無駄で無意味で無謀な手術」をするより、QOLを維持することを最優先にして有意義な時間を過ごすほうがいいと、多くの患者さんは思うはずです。そのためには、患者さんが判断しやすいように、選択肢を具体的に提示することこそナースの役割ではないでしょうか。そのことをドクターに真正面から言っても受け入れられそうにないときには、患者さんやその家族にきちんと情報を提供して差し上げればいいじゃないですか。そうすることによって、いい結果を誘導することにつながる可能性は十分にあります。どんなに権威のドクターもナースの声は無視しても、患者・家族の声を無視することはできないはずだからです。
逸見夫人の晴恵さんもガンに侵されていたということを、数年前に彼女自身が告白しました。今は見事に克服されてお元気です。そして、逸見さんの闘病を支えた中で感じた医療の矛盾を訴えるために講演会活動などを続けておられます。逸見さんの残してくれた宿題を大切にしているという意味では私の同志でもあります。患者のために徹底的に闘ってくれる素晴らしいナースが育ってくれればあのような悲劇は激減するに違いありません。それは私たちの共通の思いなのです。ナースのみなさん、自分は誰のためのナースか、もう一度、自らにしっかりと問いかけ直してみて下さい。