第05回 黒岩裕治の頼むぞ!ナース

第5回 〜患者さんのために、あなたのために!〜

 前回はせっかくナースになったのに1年で辞めてしまう人が多いという話をしましたが、ナースが辞める理由のひとつに職場の人間関係がうまくいかないからというのも大きな要素としてあげられるでしょう。
 病院だけでなく、どこの職場にも嫌な奴というのはいるものです。相性が悪いとか、波長が合わないとか、顔を見ているだけで虫唾が走るというようなタイプって、どんな組織でも一人や二人はいますよね。そういう人間と一緒に仕事をしなければならないというだけで、ノイローゼのようになってしまい、挙句の果てには辞めてしまうっていうことはよくあることです。

 私にもそういう人間はいましたが、逆に言えば、相手にとっては私自身がそういう存在だったかもしれません。私の通常の職場ではありませんが、つい先日も、仕事の場で信じられないような嫌な人物と遭遇してしまいました。あるシンポジウムの席上でのことです。

 私がそのシンポジウムの司会進行を任されていたのですが、お引き受けをした段階で私はある提案をしました。パネラーのみなさんのプレゼンテーションをなしにして、すべてを討論会にしたらどうかというものでした。
 私が観客としてシンポジウムを見ていて、いつも不満に思うことがありました。シンポジウムというのはまずパネリストが一人一人、自分の考えをプレゼンテーションした上で、討論に入ります。しかし、プレゼンテーションはとかく長くなりがちで、肝心の討論が十分に行われないまま、消化不良で終わってしまうことがあまりに多かったからです。

 それでは短めの講演会をただ単に連続で聞いているようなもので、面白くありません。シンポジウムの妙というのは、それぞれのパネラーの意見のやりとりにあるはずです。ただ、そういうカタチで司会をするというのは、司会をする立場からすればたいへんです。逆にパネリストにとっては事前の準備がいらないのですから、楽になります。

 せっかくテレビのキャスター業をやっている私がそういう場の司会を引き受けるのですから、私が少々苦労をしてもその方が会場に来てくださっているみなさんにとっては面白いはずです。現に私が引き受けた会はいつもそうしてきましたし、それが絶対にうまく行くという自信もありました。事前の打ち合わせに来られた事務局の人も目を輝かせ、それは面白そうだということで嬉々として帰って行かれました。

 ところがしばらくして事務局の人から、沈んだ声で報告がありました。パネリストのみなさんも面白そうだと乗り気になってくれたのに、たった一人だけが強硬に反対している人がいるというのです。自分の考えをキチンと述べる場が確保されていないと、討論などできないと文句を言っているとのことでした。何も無理やり私の流儀に従わせることはありませんから、私はあっさりと全面譲歩をしました。そんなところで私が突っ張ってみても、彼女たちが私とその人物との間で挟まれてしまうだけです。

 ただ、その代わりにできるかぎりプレゼンテーションの時間を短くして、討論の時間を確保してくれるとありがたいとだけ言っておきました。結局、当初の事務局案では一人18分ずつとなっていたプレゼンテーションを12分にしてもらうことになりました。

 そして当日を迎えました。会の始まる1時間半前に集合して、打ち合わせを兼ねてパネリストのみなさんとランチをご一緒することになっていました。その日のパネリスト4人のうち、3人は初対面でした。私の提案に文句を言ったのはたぶん私の隣に座っている人物なんだろうなと思っていました。私には特別の感情はありませんでしたが、なんとなく嫌な空気は感じていました。1時間半の間、一言もしゃべらないし、私と視線を合わせようともしないのです。私が恨まれることでもなかったはずなので、ただ単におとなしい人なんだろうって思うようにしていました。ところがこの人物は、とんでない食わせ者だったのです。

 彼は最初のパネリストとしてプレゼンテーションを行いましたが、事務局の事前の打ち合わせを全く無視して20分間、滔々と独演会をやったのです。最初の人物が長くなると、その後に続く人もみんな長くなるというのはお決まりのようなものです。次のパネリストもしっかりと20分間、使いました。私の想定した最悪の状況になりつつありました。

 そこで、せめて後二人には時間を守ってもらいたいと思い、3人目を紹介するときにお願いをしました。その時に私は、「12分のお約束だったのに、お二人ともしっかりと20分以上話されました」というような言い方をしました。これで会場は笑いに包まれたのですが、これがどうやらこの人物の癇に障ったようでした。

 討論に入るために私なりに論点を整理し、最初の質問をその人物に投げた瞬間でした。彼はいきなり私に対して信じられないような罵声を浴びせかけてきたのです。「そんなことを聞くなんて、人の話を全然聞いてない証拠ですな。私の生徒だったら落第点です。ちゃんと話を聞いた上で質問をしなさい。」

 それは明らかに敵意あふれる発言でした。私は500人の聴衆の前で赤恥をかかされた格好となりました。なんの予告もない、テロリストのようなやり口でした。私は怒りに震えましたが、とにかく自分を抑えるのに必死でした。なんと言ってもまだ討論は始まったばかりなのですから、いきなり投げ出すわけにもいきません。

 私が彼の主張と違う角度から議論を始めたことは確かです。彼の主張は私には机上の空論としか思えませんでした。学者先生が現場を知らずに頭の中で考えて組み立てたような実にノー天気なアイデアでした。しかし、パネリストの意見をいきなり私が粉砕するのも失礼なので、素朴な疑問を整理するところから議論を始めようとしたのです。あくまで討論ですから、質問には答えていけばいいだけの話です。自分にそれができないからと言って、いきなり人に落第点をつけるとはいったいどういう了見なのでしょう。

 私も売られた喧嘩をそのままにしておくことはできず、ある程度、きつい言い方で返しました。彼も懲りずに応酬してきました。しかし、こんなトゲトゲしいやりとりを繰り返していては、せっかく事務局のみなさんが苦労して準備されてきた会が目茶目茶になってしまいます。それよりも会場にわざわざ足を運んできてくださった500人ものみなさんが、嫌な気持ちになってしまいます。

 私は今にも立ち上がって彼の元に歩み寄り、襟首をつかんでねじ上げてやりたい衝動をグッと抑え、その後は冷静に会を進行させました。そしてなんとか聴衆のみなさんに満足していただける会に仕上げるところまでは持っていきました。私は控え室に帰ってから、彼に詰め寄り激しく抗議をしようかとも思いました。しかし、それも大人気ないし、こんな男にいつまでも恨まれているのもバカバカしいので、関係だけは修復しておこうと思い、私の方から彼に頭を下げに行きました。

 「途中、無礼があったことをお許し下さい」すると、その男はこれ以上の傲慢はないといった不遜な態度で、「おぅ」と人を見下したような顔で一言、応対したのでした。私は今でもその一連の出来事を振り返るとはらわたが煮えくり返るような憤りを覚えます。それと同時に、よく自分を爆発させないで、コントロールできたものだと自分のことながら、感心してしまいます。それとともにこのような心の貧しい人物が大学で教育の現場にいるかと思うと、情けなくて仕方がありませんでした。日本の医学教育の貧困を見る思いでした。

 世の中にはいろんな人がいるものです。この人物はたまたまその時だけ一緒に仕事をしなければならなかっただけですから、終われば二度と会わなくても済みました。でも、こういう嫌な奴が自分の日常の仕事場にいたらどうでしょうか?果たして私自身、耐えられるでしょうか?

 みなさんの職場にはこういう嫌な奴がいるかもしれませんね。おそらくいるという人の方が多いんじゃないでしょうか。こんな奴と一緒に仕事をするくらいなら辞めてしまった方がいいと思って、実際に辞めてしまう人も大勢いるでしょうね。はたしてそういう時、どうすればいいんでしょうか?

 私が壇上ではらわたが煮えくり返る思いをしながら、自分を押さえ込んだ時、聴衆のことを必死で考えるようにしていました。聴衆のみなさんには何の罪もありません。そんなみなさんに不快感を与えることだけは避けたいという強いがありました。それが私の自制心を守ってくれたように思いました。

 さて、みなさんにとって、私の“聴衆”にあたる人は誰でしょうか?つまり誰のために仕事をしているか、誰に喜んでもらうために仕事をしているかということです。それはまぎれもなくみなさんの前にいる患者さんです。みなさんが嫌な奴のために辞めていったとして、患者さんに対してそれでいいと思いますか?ナースは患者さんのために仕事をしているのだということを絶対に忘れないで下さい。

 職場の人間関係で悩むことはむしろ普通のことです。あなただけの特別なことではありません。組織というものはそういうものなんです。そう思えば気持ちも少しは楽になるでしょう。たとえ今の職場を辞めて他に移ったとしても、同じようなことがおきないとは限りません。涙を流すような悔しい思いをした時、患者さんのことを思って下さい。みなさんを頼りにしている患者さんのあの笑顔を思い出してください。きっとあなたに勇気を与えてくれるに違いありません。

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